1-6 軍慰安所で強制はなかったの?

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慰安所での強制

日本軍「慰安婦」問題で最大の問題は、慰安所で強制があったかどうかです。女性たちがどんな形で連れて来られたにしても、たとえば、豪華客船に乗せられ、陸上に出て高級車に乗せられて連れて来られたとしても、また、自由意思でやって来た場合でも、軍の施設である慰安所で軍人・軍属の性の相手を強制されていたなら、軍の責任は免れません。

この点について、1993年の「河野談話」は「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」と明確に認めています。この見解は、ごくまともなものです。なぜなら、被害にあった多くの女性たちの証言があるからです。また、実際に慰安所に通った、かなりの数の軍人・軍属たちが慰安所の凄まじい状況を見てたじろいだという発言や記録は、被害者の証言と一致するからです。

日本軍「慰安婦」制度は性奴隷制度だった

また、日本軍「慰安婦」制度が性奴隷制度だったとすれば、その制度の下で軍人・軍属の性の相手をさせられる女性たちは、自由意思でそうしているとは言えません。

下の表は、日本軍「慰安婦」制度と、日本国内の公娼制度(1900年以降)とを比較したものです。公娼制度も日本軍「慰安婦」制度も、どちらも性奴隷制度ですが、形態上の相違も少しあります。

居住の自由 外出の自由 自由廃業 拒否する自由
公娼制度 なかった。 なかった。
1933年からは認めるよう内務省が指導。
法律上の規定はあった。しかし、実現することは極めて困難だった。 建前は自由意志ということになっていたが、拒否することは困難だった。
「慰安婦」制度 なかった。 なかった。 なかった。 拒否は殆ど不可能。

公娼制度と日本軍「慰安婦」制度は、ともに女性たちに居住の自由がありません。管理・統制された一角にある住居に住まなければならない点が共通しています。「慰安婦」は決められた狭い部屋で起居し、生活しなければなりませんでした。

公娼制度では、女性たちは「籠の鳥」と言われ、外出の自由が認められていませんでした。しかし、1933年から内務省は、許可制では外出の自由はないことになるとして、許可制をやめ、外出の自由を認めるよう指導をしています。なぜ、そういう指導をせざるをえ得ないかというと、公娼制度は女性の自由を奪った制度ではないかとの批判を外国から受けたのですが、その理由の一つが許可制のため自由に外出できない、というものでした。その批判をかわすための指導だったのです。

これに対し、日本軍「慰安婦」制度では日本軍は外出の自由をそもそも認めていません。軍がつくった軍慰安所規定を見ると、外出の自由を認めない規定がいくつかあります。中国の常州に駐屯していた独立攻城重砲兵第二大隊が1938年につくった「常州駐屯間内務規定」は、「営業者ハ特ニ許シタル場所以外ニ外出スルヲ禁ス」としています(「営業者」とは「慰安婦」のこと)。ある一定の許可した場所以外に外出を禁ずるのは、外出の自由がなかったということです【資料1】。

【資料1】独立攻城重砲兵第二大隊「常州駐屯間内務規定」1938年3月16日。

比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所(パナイ島イロイロ市)の規定(1942年)でも、「慰安婦外出ヲ厳重取締」、「イロイロ出張所長ノ許可ナクシテ慰安婦ノ連出ハ堅ク禁ズ」という条項があります【資料2】。許可制なので外出の自由はなかったということになります。

【資料2】比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所「慰安所規程(亜細亜会館、第一慰安所)」(1942年11月22日)。

公娼制度も性奴隷制だった

公娼制度では、それが性奴隷制度ではないというために、内務省は自由廃業の規定をつくっていました。自由廃業とは、遊廓のなかで売春をさせられている女性が辞めようと思えばすぐに辞められるという権利を認めるということです。

ただし、これは実際には機能していません。なぜかというと、自由廃業の規定があること自体、遊廓の女性たちはそもそも知らなかったのです。仮に知ったとしても、廃業は警察に届け出なければなりませんでしたが、業者が妨害して届け出ることはできませんでした。運よく警察に届け出たとしても業者は裁判を起こし、借金を返せと言います。裁判になると、売春で借金を返すという契約は公序良俗に違反しているので無効だが、借りた借金は返さなければいけないという判決がほとんどです。そうすると借金を返せない女性は、そのまま遊廓に拘束されてしまうのです。

ですから公娼制度は、事実上の性奴隷制度だと言わざるを得ません。これに対して日本軍「慰安婦」制度はどうであったかというと、自由廃業の規定はそもそもないのです。最初から無視されています。

性の相手をすることを拒否する自由はあったのでしょうか。公娼制度では建前では自由意思となっていますが、借金を返さなければならないので、拒否することは困難だったでしょう。軍「慰安婦」制度の下では拒否はほとんど不可能でした。拒否すれば業者や軍人から制裁を受けることになります。

このように、公娼制度も日本軍「慰安婦」制度もともに性奴隷制でした。違いがあるとすれば、公娼制度は、市民法下の制度なのでいちおう性奴隷制ではないような外見をともなっているが、実質は性奴隷制であり、日本軍「慰安婦」制度は軍法下の性奴隷制、文字どおりむき出しの性奴隷制であったということになります。そのような制度の下で軍人の性の相手をさせられる女性たちは強制的にさせられたのだ、と言わざるを得ません。

(2022年8月12日更新)

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