日本軍「慰安婦」にされたのは主に日本人以外のアジア諸国の女性たち
日本軍「慰安婦」とは、1932年の第一次上海事変1から1945年の日本の敗戦までの間に、日本の陸軍と海軍が戦地・占領地につくった慰安所【参考:慰安所マップ】に入れられて、日本の軍人・軍属の性の相手をさせられた女性たちのことです。
「慰安」というのは、本来は慰さめて心を安らかにすることで、慰安所とは心のオアシスというような意味で用いられていましたが、軍人が性交する場所という事実を隠すために、軍はこの用語を選んだのでしょう。
日本軍「慰安婦」にされた人は、日本人・朝鮮人・台湾人・中国人・フィリピン人・インドネシア人・ベトナム人・マレー人・タイ人・ビルマ人・インド人・ティモール人・チャモロ人・オランダ人・ユーラシアン(白人とアジア人の混血)などの若い女性たちです。そのうち、朝鮮人・中国人・フィリピン人・インドネシア人など日本人以外の女性の比率が圧倒的に多かったのです。
女性たちのほとんどは経済的に貧しい家庭の出身か、戦争のため苦境に陥っていた女性たちで、略取(暴行・脅迫を用いて連行すること)・誘拐(騙したり、甘言を用いて連行すること)・人身売買などにより慰安所に入れられています。
国際法違反
また、日本が加入していた婦人・児童の売買禁止に関する国際条約(1910年の「醜業を行はしむる為の婦女売買禁止に関する国際条約」と1921年の「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」)は、本人が同意したとしても、満21歳未満の女性を国外に連れて行くことを禁止していますが、日本軍「慰安婦」にされた女性には未成年の少女も多く、公文書によれば、台湾からは14歳の少女が広東省の軍慰安所に連行されています。
日本軍は、日本が占領した中国・東南アジア・太平洋地域に慰安所をつくりました。インド領のアンダマン・ニコバル諸島や、日本の委任統治領2だったパラオやトラック島にもつくりました。中国との国境に近い朝鮮半島北部や千島列島にもありました。米軍が日本に迫ってくると、台湾や沖縄に日本軍部隊が派遣されたので、ここにもつくりました。また、本土決戦用の部隊が集結した一九四五年には南九州や四国、房総半島などにもつくりました。
「慰安婦」制度は性奴隷制度
1991年に韓国人の元日本軍「慰安婦」の<ruby>金学順<rt>キムハクスン</rt></ruby>さんが50年近い沈黙をやぶって名乗り出てから、日本軍による重大な人権侵害として、大きな問題となりました。日本政府は、「民間業者」が連れ歩いていたのであって、軍は関与していない、と答弁していました。しかし、1992年に軍の深い関与を示す公文書が発見されると、答弁を撤回し、1993年に軍の関与と重大な人権侵害であることを認める河野洋平官房長官談話(以下、「河野談話」)を発表しました。
「慰安婦」という用語は、実態を隠す用語なので、近年はカッコをつけて用いられています。国際的には、「慰安婦」制度は、“sexual slavery”(性奴隷制度)と表記されています【詳しくは「慰安所で強制はなかったの?」内の「日本軍「慰安婦」制度は性奴隷制度だった」を参照】。
1930年代から第二次世界大戦中に、このような軍中央が承認する全軍的な制度をもっていた軍隊は、日本軍以外にはほとんどありません。ドイツ軍は、類似した制度があったようですが、第一次世界大戦後のドイツは植民地をもっていなかったので、日本軍のように植民地から女性たちを集めて連れて行くということはありませんでした【 詳しくは「軍慰安所はどこの国にもあったの?」】。
(2022年8月3日更新)
▼次の入門Q&A
1-3. なぜ、誰が、軍慰安所をつくったの?【https://fightforjustice.info/?p=9081】
- 1931年9月18日、日本は「満州事変」と呼ばれる中国東北部への武力侵略戦争を開始しました。第1次上海事変は、「満洲事変」の最中である1932年1月に、日本軍が上海に上陸したことではじまった、日本と中国の間の局地的戦争でした。日本のねらいは、「満洲事変」に対する世界の批判をそらし、中国の抗日運動を抑えることにありました。しかし、中国側の強力な抵抗によって、5月に日本軍は撤退しました。
- 委任統治領とは、第1次世界大戦で日本が獲得した植民地のことを指します。第1次世界大戦の結果、敗戦国であるドイツの旧植民地を国際連盟の委任統治領として主要戦勝国のあいだで再分割することが決められました。これによって、日本は南洋群島(ミクロネシアの赤道以北で、グアム島を除いて、マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島,バベルダオブ島(パラオ諸島の主島)など1400あまりの島々)を獲得したのです。