1-4 女性たちはどのように集められたの?

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日本・朝鮮・台湾から

戦地・占領地の日本軍部隊が慰安所の設置を決定すると、日本・朝鮮・台湾など「日本帝国」領土で「慰安婦」を集める時には、軍が業者を選定するか、内務省や総督府に業者の選定を依頼し、その業者に集めさせます。日本内地からは、警察による出国制限があったので、売春の前歴がある、21歳以上の女性がほとんどでした。しかし、これら日本から送り出される女性のほとんどは、家庭が貧しいため、遊廓などに入れられていた人身売買などの被害者だったのです。

業者は女衒ぜげんと呼ばれる人身取引業者から選ばれることが多く、とくに朝鮮・台湾では、女性たちは刑法違反の略取・誘拐や人身売買により集められ、国外に移送されました。また、売春経験のない女性や、婦女売買禁止国際条約が禁止している満21歳未満の女性が国外に移送されることになりました。

日本・台湾で集められた女性たちは軍用船で戦地に送られました。朝鮮で集められた女性は、汽車か軍用船で戦地に送られました。そこから軍のトラックなどで目的地まで移送されます。

中国・東南アジア・太平洋地域で集められた女性たちは、軍慰安所が現地にある場合はそのまま入れられ、ほかの戦地や占領地に送られる場合は軍用船で移送されました。

中国・東南アジア・太平洋地域から

中国・東南アジア・太平洋地域の戦地・占領地で地元の女性を集める場合は、地元の「売春婦」を軍慰安所に入れるだけでは足りずに、軍が売春経験のない女性を集めました。その方法は、市長・村長など地元の有力者に要求して集めさせる場合や、軍が直接集める場合がありました。

溝部一人編『独山二』(私家版、1983年)

第一の場合は、その地域の差別されている家庭か、貧しい家庭の女性が、地域の治安・安全のためだからと説得され、事実上の強制によって、日本軍「慰安婦」にさせられることになります。この強制のケースを示す資料としては、たとえば、独立山砲兵第二連隊第二大隊の軍医の日記があります。1940年8月11日、中国湖北省董市近郊の村で、地元の中国人女性を日本軍「慰安婦」にするため、性病検査をした日記です。

さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなか褲子〔クーツ=ズボン〕をぬがない。通訳と〔治安〕維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。

 次の姑娘も同様でこっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣くきたのであろうか?

 なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が、念頭から離れない。(溝部一人編『独山二』私家版、1983年)

日本軍の要求なので、断りきれず、村の有力者の圧力で、事実上強制的に差し出されたという事情がうかがわれます。

第二の場合は、部隊が布・食料・塩などを与えて女性を集めました。また、部隊が暴行・脅迫を用いて直接連行することも少なくありませんでした。

(2022年8月9日更新)

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