中国 津浦線 蚌埠

日本軍将兵の戦記

「終戦秘話(明朗日報社編)」鉄道第一三連隊第一中隊戦友会『硝煙の鉄路』一九九〇年。

(敗戦直後)
明朗日報社設立準備の打合せの為特派されていたS記者は、津浦線峠埠近郊に宿営していた大隊本部に大隊長を訪ねていた。
生憎大隊長は本部への連絡とかで留守であった。所在のない侭S記者は宿営内のあちこちを歩いていると、一寸離れた中庭の処に小綺一麗な建物があったので覗いて見たら、可愛らしい和服の女性が三名、一箇所にかたまって座っていた。
「私達は軍隊慰間の演劇団員として応募したのに、来てみたら兵隊さんの相手をさせられて、こんな事になった…戦争に負けては金も貰えないし、生れ故郷にも帰れない。あなた達と一緒に連れて行って頂戴」と大粒の涙を流して訴えられた。
今まで他の部署に属していたのを、転進に伴い、そこに残置されたらしい。そして大隊本部の管理下?に預けられていた慰安婦であった。大隊本部が呉淞へ転進するとき何がしかの金品を給与された彼女達は何処かへ逃れたのだろう?その姿は無かった。記者は彼女達の安全をそっと祈った。

 

日本軍将兵の戦記

湯口富造『麦の海を泳ぐ兵隊一兵士の陣中日記』(私家版、茨城県大子町、一九九二年)一八三~一八四頁。
(第一三師団兵士)

 三月十四日 〔前略〕昨夜は将校慰安所の布団を縫わされた。青い人絹で五巾の布団だ。二時間ほどかかって十一時半頃本部へ納めたが、戦争に来て女郎の布団を縫わされるとは……。〔中略〕

三月十七日 〔前略〕十一時より部隊衛兵服務。将校慰安所開設のため歩哨を付す由。今夜は特に警戒を厳にするよう本部より達しあり。慰安所のための歩哨か……。月のみ徒らに冴えて沖天に高く、飢えた野犬の遠吠えが凄い。兵火に廃墟と化した町の夜は刻々と更けてゆく。

 

日本軍将兵の戦記

「終戦秘話(明朗日報社編)」、鉄道第一三連隊戦友会『硝煙の鉄路』1990年・同会・香川県三野町・54頁。
(一九四五年敗戦直後、津浦線蚌埠にいた記者の回想)

明朗日報社設立準備の打合せの為特派されていたS記者は、津浦線蚌埠近郊に宿営していた大隊本部に大隊長を訪ねていた。(略)所在のない侭S記者は宿営内のあちこちを歩いていると、一寸離れた中庭の処に小綺麗な建物があったので覗いて見たら、可愛らしい和服の女性が三名、一箇所に固まって座っていた。「私達は軍隊慰問の劇団員として応募したのに、来てみたら兵隊さんの相手をさせられて、こんな事になった…戦争に負けては金も貰えないし、生れ故郷にも帰れない。あなた達と一緒に連れて行って頂戴」と大粒の涙を流して訴えられた。今まで他の部署に属していたのを、転進に伴い、そこに残置されたらしい。そして大隊本部の管理下?に預けられていた慰安婦であった。

マップ・資料リストに戻る

 


より大きな地図で 慰安所マップ を表示

111