中国 洛陽
日本軍将兵の戦記
宮谷重雄「わが戦記恥さらし」新京陸軍経理学校第五期生記念文集編集委員会『追憶』上巻、一九八五年、私家版、一四六頁、
原隊の工兵中隊に戻ると、お前は師団司令部(その時は、戦車第三師団と昇格していた)に転属だということで、師団の経理部付となり、とうとう主計の見習士官とされてしまったわけである。
経理部の経営科に所属して、建築を出ているということで、野戦倉庫のパン釜を作らされたり、作戦が近いと言うので、野戦での仮り小屋作りの演習をさせられたりしていたのであるが、ある時経理部長に呼ばれた。
「見習士官、将校用の慰安所を作ってくれ」
私は驚いた、慰安所と言う言葉も耳なれないし、だいたい見当はついたが、これらはエライコトになったと正直思った。学校の時、勿論待合設計などしたことはない。しかし、命令であるので、やむを得ず学生時代の悪所通いの経験などを下にして、なんとか十数部屋の曰本間をデッチ上げたのである。経理部長には「良くやった」と誉められたが、何をかくそう、この業績が後々まで尾を引こうとは、神なら身、気が付くのが遅過ぎたのである。
やがて洛陽作戦が始まった。月余で洛陽が陥落してホッとしていると、数曰後、師団の後方参謀が直接呼びに来たので、何事ならんと出頭すると、「宮谷少尉は、至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めて来い」という命令である。もうこれは、メチャクチャである。大学を出て、なんの因果でピー屋造りをさせられるのか、その上女街まがいの女集めまでさせられたのである。何とも情ない思いであったが、命令である。同行していた大工上がりの軍属に慰安所造りの指示を与え、塩を二三俵トラックに積んで、洛陽市内に女狩りに赴いたのである。どうもこの作命は、後で聞いたとこによると、包頭での慰安所造りの成功が効いていたそうである。
ともかく、洛陽をトラックでグルグル回り、私のカンも良かったのか、二、三軒で十数人の女集めに成功して、部隊に連れてくることができたのである。
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