ビルマ ラングーン
写真
日本軍将兵の戦記
濱村幾三郎『北斗七星から南十字星まで』讃文社、一九八七年、一〇二頁、
他の戦友たちは私とちがって、プラトニックラブよりは実際的な方を選んで、街に娼婦を買いに行っていた。そのうちの戦友の一人が、あるとき遊びから帰ってきてびっくりしたように、いった。
「女を買いに行ったら、それがなんと妹の同級生なんだよ。あんな驚いたことはないね。なんでも、だまされて連れてこられたそうだ」
彼がその娘から聞いてきたところによると十九才から二十才ぐらいの朝鮮の娘が、タイピストやウエイトレスや事務員の名目で何百名も国に獲り出され、御用船に乗せられて来てみると、タイピストどころか慰安婦だったというのである。どの娘も高等教育を受けたちゃんとした家の生娘で、それが集団で連れてこられたそうなのだ。
日本軍将兵の戦記
小俣行男『戦場と記者』(冬樹社、一九六七年)三三三~三三四頁。
(著者は読売新聞の従軍記者)
ある日「日本から女が来た」という知らせがあった。連絡員が早速波止場へかけつけると、この朝到着した貨物船で、朝鮮の女が四、五十名上陸して宿舎に入っていた。まだ開業していないが、新聞記者たちには特別にサービスするから、「今夜来て貰いたい」という話だった。「善は急げだ!」ということになって、私たちは四、五名で波止場ちかくにある彼女らの宿舎に乗りこんだ。
私の相手になったのは二十三、四の女だった。日本語はうまかった。公ママ学校で先生をしていたといった。
「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」ときくと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。
「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話で募集がありました。私は東京へ行って見たかったので、応募しました。仁川沖に泊っていた舟ママに乗りこんだところ、東京へ行かずに南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで、半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけにも行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ可哀想なのは何も知らない娘たちです。十六、七の娘が八名います。この商売はいやだと泣いています。助ける方法はありませんか」 彼女たちのいうように逃亡できる状態ではない。助ける方法って何かあるだろうか。考えた末に、「これは憲兵隊に逃げ込んで訴えなさい」といった。〔中略〕これらの少女たちがかけこめば、何か対策を講じてくれるかも知れない。或はその反対に処罰されるかも知れない。しかし、いまのビルマでは他に方法があるだろうか。
若い記者たちも同情した。結局この少女たちは憲兵隊に逃げ込んで救いを求めた。憲兵隊でも始末に困ったが、抱え主と話し合って、八名の少女は将校クラブに勤務することになった。その後この少女たちはどうなったろうか。
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