ビルマ メイミョー &シンガポール
日本軍将兵の戦記
山口彦三『ビルマ平原落日の賦』まつやま書房、一九八七年、四七~四八頁、
マリ子の両親は半島出身者だったが、横浜で相当多くの半島人を使い土建業をやって裕福な生活だった。マリ子が女学校三年の春、工事現場で大事故があり、父親と使用人二人が即死してしまった。事故処理が終った母子四人には僅かの金が残ったが、働こうにも良い職場がなく、やむなく下関に残している祖父の下へ帰らなければならなかった。
下関の祖父の住む半島人長屋は、粗末な小さい暗い部屋でいやな臭いがしていた。マリ子と二人の弟は母親にとり縋って泣いた。祖父は老年で働けないし、母親も病気持ちになり、残された金は少なくなり二人の弟は学校へも行けなかった。そのうち、九州の炭鉱の料理屋や下関の料理店などから、マリ子を是非と頼みに来たが、マリ子は厭だったし、第一母親が承知せずみな断ってくれた。然しその日の生活にも困るようになったマリ子と母親は、近くのお爺さんからもぐさ作りを教わり、朝白くから蓬採りを始め、もぐさを作って漢方薬屋に売りに行った。百匁二十銭で、母親と二人でも四百匁は迚もできなかった。その上雨が降れば蓬採りにも行けず、まったく困り果てた。
その頃、母親が親しくしていた春川節子さんという方から、「対馬の陸軍病院で雑役婦を募集しているから行かないか」という話があった。仕事は傷病兵の洗濯奉仕やそうじなどの軽作業で、給料は月三十円、仕度金として一一十円、宿舎糧食衣服等は現地支給で、志願者が相当多いとのことだった。春川節子さんは半島出身ではあるが、下関の病院に勤めながら勉強し、産婆となった人でそこの病院長の子を産み、その子が今は軍医少尉となり北支に出征中とのことであった。信用できる方の世話なので、マリ子は母親と相談し早速志願した。女でもお国の為に役立つことができ、一家の生計が救われると思うと、マリ子は久しぶりに晴々とした気分になった。
マリ子は見送りの人々に手を振って、下関港の御用船に乗りこんだ。一緒に志願した人たちは百名だった。
対馬は近くなのに船は幾日も進む。途中、諸々の港で物資を積み込むので、対馬に着くのは大分遅れるという噂が流れてきた。幾日経ってもどこへも寄らず、狭い御用船は一日毎に暑さが酷くなってきた。どうやら船は南下してるらしく、みんな編されてどこかへ連れて行かれることがもう疑いのないものとなった。みんなが怒って騒ぎだしたが、船は夕刻海南島に着き、上陸させられ、三班に分けられ車で楡林の3ヶ所の慰安所に送りこまれてしまった。
海南島は風が涼しくてよい島だったが、恐ろしい辛い島だった。マリ子は何回となく死ぬことを考えたが、やっぱり死ねなかった。それからシンガポール・ラングーン・メイミョウと兵団の進むがままに、流されるようにメイミョウにまでやってきた。幸いラングーンから今の主人達に見込まれ、年少だったことと文筆計算等の優れていた点を認められ、経営主のよき片腕になったという。
「日本の偉い人達はまったく卑怯ね、鬼だわ。中国の人達が曰本人を東洋鬼と呼ぶけど、私だってその気持ち、ちっとも変らないわ」
マリ子は次第に口調が激しくなり、拳を握って必死に何かを堪えているようだった。
より大きな地図で 慰安所マップ を表示