日本軍将兵の戦記
白鳥隆壽『シッタン河に沈む ビルマ敗走記』(私家版、東京都、一九六二年)八六頁、八八頁。
(著者は第七三兵站地区隊)
市の一劃にあった大きなイギリス人や、支那人の家の一階、二階の部屋を細かに区切って、その小さな仕切の中に慰安婦が一人ずつ働いていた。彼女たちの出身国は様々で、広東出身、朝鮮出身、内地出身…といろいろ変った人種の人が来ていて、それらが各〻一グループとなって、一人の主人のような者が率いていた。宣撫政策上かビルマ人の慰安婦などは一人もいなかった。〔中略〕一応内地の開ママ放前の遊郭と同じであるが、もっと端的でむき出しな感じである。そこには色気とか情緒というようなものは殆んどない。先ずきまった金額のチケット(切符)を買う。一人で何枚も買え、切符があれば何んな慰安婦の処に行っても自由である。しかし同一グループ内で、何人もの慰安婦を相手にすることは禁ぜられていた。〔中略〕 戦争による被害者は、直接戦闘に参加して、かけがえのない命をなくす兵隊だけではない。こんな処に送られてきて、逃げるに逃げられず、身も心もすっかり使い果たして、廃人になってゆく女の人も、相当な犠牲者と考えざるを得ない。広東の慰安婦などは、どういう経路でビルマにきているのか。全く見ず知らずの土地に、しかも敵の軍隊の中にきて働いている。どう考えても了解できないことだった。その広東ピーが一度ストライキをやったことがある。原因は或る兵隊が、蔣介石のことをののしったことから、その広東慰安婦と喧嘩となり、それがきっかけで全員就業を頑強に拒んだ。この拒絶は死を覚悟しなければできないことである。全く、敵の中に捕われているに等しい地位にあって、なおかつ敢然と反抗する態度は勇敢で、偉いものだと感心した。それ以来広東人の慰安所に行った場合は、蔣介石のことを口にすることはタブーとされた。
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