インドネシア 北スマトラ コタラジャ

日本軍将兵の戦記

須藤友三郎「インドネシアで見た侵略戦争の実態」上越よい映画を観る会、直江津空襲と平和を考える会編『こんな日々があった戦争の記録』同会・一九九五年・九九―一〇〇頁。
(一九四三年以降北スマトラにいた兵士の記録、コタラジャの慰安所で)

スマトラ島の最北端にコタラジヤという町があります。私たちは最初ここに上陸し駐屯しました。この町には当時、日本軍の「慰安所」があり、朝鮮人の女性が二十名程、接客を強制させられていました。みんな二十才前後と思われる農村出身の人たちでした。「慰安所」の建物は、ベニヤ板で囲った急ごしらえのもので、周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。当時、日本の兵隊の月給は十三円程度でしたが、「慰安所」の利用は一人三〇分で三円程でした。日本軍は交代で休日をとり、おしかけるので、一人の「慰安婦」が一日に二〇名位の接客を強制させられるというひどいものでした。「慰安婦」の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。その弱みにつけ込んで、一人当たり二十円程度の前渡金をもってきて、「日本本土の工場労働者になってもらいたい」と親をダマし、徴用されたというのです。ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、涙を流して「悔しい」と泣いていました。しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた「慰安所」ができました。ここには、インドネシアの若い女性が十名程収容されていました。この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で連れてこられたと憤慨していました。

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