インドネシア ポンテアナック
東京裁判に提出された検察側証拠書類
ポンテヤナック虐殺事件に関する一九四六年三月一三日付林秀一署名付訊問調書
本日、一九四六年三月一三日容疑者林秀一は在ポンチヤナック臨時軍法会議予審委員たる予、即ちメーステル・イエ・ベ・カンの面前に出頭した。
問 君の氏名、年齢、住所及職業を私に言ひなさい。
答 林秀一、二十四歳、日本石川県生れ、海軍軍属。
一九四三年七月十三日私はポンチヤナックに到着して警備隊長上杉ケイメイ大尉のところに出頭しました。ポンチヤナックでは私は私が設置したハナ機関の地方部長となりました。このハナ機関は海軍の情報機関でありました。(略)
[証人ラフィアの訊問調書が容疑者に提示され、これについて訊問がなされた]
答 この婦人がポテム及アミナと共に上杉より訊問を受けたことは本当であります。その場合私は馬来語通訳として立会ひました。上記婦人は日本人と親密にしたと云ふので告訴されたのです。日本人と親密にすることは上杉の命によって許されていなかったのであります。私は上記の婦人を平手で打ったことを認めます。又彼等の衣服を脱がせたことも認めます。之は上杉の命令で行ったのであります。かくて三人の少女は一時間裸で立たなければなりませんでした。
問 これは日本で婦人を訊問する時の慣習か。
答 それは私は知りません。
問 君は部下の巡査ではない。併しポンチヤナックで独自に仕事をして居るスパイである。故に上杉のかくの如き命令に従ふ必要はない。
答 私はこの婦人たちが脱衣して裸にならなければならなかったことを承認しました。私は此の婦人たちは実際は罰すべきでなかったと信じます。併し彼等を抑留したのは彼等を淫売屋brothelに入れることが出来る為の口実を設けるために上杉の命令でなされたのであります。脱衣させたのは彼等が日本人と親密になったことを彼等に認めさせることを強ひるためでありました。結局その婦人たちは淫売屋へは移されませんで、上杉の命令で放免されました。何故だか私は知りません。
問 幾日間その婦人たちは特警隊の建物の中にいたか。
答 私の思ふのには五日乃至六日間でした。彼等は建物の後の監房の一つにいました。
(以下、略)
日本軍将兵の戦記
井関恒夫『西ボルネオ住民虐殺事件―検証「ポンテアナ事件」』(不二出版、1987年)
(著者は住友殖産社員としてポンテアナックに駐在。)
(1943年春以降)この悪化して行く戦況を知る若い隊長(注―上杉敬明のこと)にとっては、酒に酔い、喧嘩はする、妾を囲って放埼な生活をしている在留邦人の行動は、時局柄もはや黙視し難い事態であり、在留邦人の精神を刷新する目的とした指令が出された。
「蓄妾禁止令」である。日本人が妾を持つことを禁止する軍の指令である。現在妾を持っている者は妾と別れて、その妾を慰安婦として差し出せとの命令である。(中略)
私の知ってる二号となってる女達の二人が私の所にやって来て、
「私らは一人の日本人の旦那に仕えてるのが何が悪いのか、私は今の旦那が好きで現地妻となっているのに、それを娼婦扱いにして慰安所に入れて、大勢の日本人を相手にしろというのですか、こんな馬鹿なことがあるもんか、私らは納得出来ません」
と、二人から抗議を受けたことがある。私はこの二人に早く身を隠せと忠告した事がある。
そして又慰安所に入れる女を求める方法として、民政府に命じ、日本人商杜に勤めてる未婚の女事務員を調べて、処女でない者は、日本人との関係を自白させて慰安婦にしたケースもあった。現に住友殖産の十七歳の女事務員が局部を調べられたといって泣いて帰って来た例もあるし、又他の商社では、日本人の名前をいえば許されると思って、何らの肉体関係もないのに自分が勤めてる所の日本人の名をいったため、その名指しの日本人が特警に呼ばれて、とんでもない濡れ衣を着せられた例もある。
これらの事実は、若き隊長が如何に自らの権力に溺れ、現住民を蔑視し個人の人権など全然無視した行為であり、現住民の一部に不安と恨みを買ったかを物語っている。
そして慰安所は、軍人用、民政部役人の高等官用・判任官用及一般商杜用と分かれて設けられ、一般商杜用は、慰安所で女を抱く毎に月日氏名を記入する事になっていた。こんな馬鹿げた事が公然と行なわれていたのである。
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