日本軍将兵の戦記
田尻啓『石油に散った火焔樹の花 ある陸軍徴員の従軍記』(菁柿堂、東京都、一九九三年)一四九〜一五〇頁。
(徴用されてパレンバンの製油所に勤務していた三菱石油社員)
パレンバン近在に駐屯する兵員の増加に伴って、軍では、昨年〔一九四四年〕あたりから慰安婦の数に不足をきたしてきた。日本から女性を連れてくるには船便が少なくなったので、現地で調達するようになった。軍はその事を当然のことと考えていたようだが、彼女達こそ、戦争がもたらした不幸な犠牲者であった。
将校宿舎に近い「征空荘」では、そうした現地の女性たちを傭って専ら将校用とし、民間人や兵隊用として新たに「東海楼」を開設した。女性を徴発する時は、米や金品を親達に与え、別の目的でもあるかの如く偽って連れてきて、売春の用に供したものであった。
噂を聞いた田中は、パレンバンに出かけたついでに、「東海楼」まで足をのばした。そう広くもない市街地を、料亭「新大阪」に向って行く手前の路地にその店はあった。たまたま開店の日ということで、三十人近くの兵隊や徴員達が玄関から表のほうまで溢れて騒がしかった。
初めのうちは物珍しさと好奇心で眺めていた田中も、バンカ島から連れて来られた殆どの女達が二十歳になるかならないかの生娘達であることに驚いた。彼女達が遣手婆さんにおどかされて、無理やりに客を取らされ泣き叫ぶ有様は、まさに地獄絵に等しく、その日は、恐ろしく逃げ帰った。
日本軍将兵の戦記
土金冨之助『シンガポールへの道』下、創芸社、一九七七年、四五頁、四七~四九頁、
巡回で出入りしているうちに、私はK子とY子という朝鮮の女性(この建物は全部朝鮮出身)とよく話をするようになった。行く度にコーヒーやケーキをご馳走になった。K子は年もまだ一八とか一九歳といっていた。小柄で丸顔の可愛らしい顔立ち、いかにも純情そうな女だった。
Y子はK子より一一つ三つ年上で、K子に比べてずっと大人っぽい。いうこともはきはきして、2階に居る二○人程の女性のリーダー格で、よく仲間の面倒をみてやっていた。中肉中背綺麗な整った顔立ちの女だった。私はこの2人と、すっかり顔馴染みとなった。女性達は我々憲兵が建物に入ると途端に、彼女達の態度が変って「憲兵さん……お茶を飲んでいきませんか」と大変な歓迎をしてくれる。
(中略)
彼女の部屋へ招かれて、お茶、お菓子の接待を受けながら、故郷のことや生い立ち、家族の話など聞かせて貰った。私が一人で行ったある日、彼女は「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです」と、述懐するように溜息を吐きながら語った。
「私達は、朝鮮で従軍看護婦、女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で狩り出されたのです。だから、真逆慰安婦になんかにさせられるとは、誰も思っていなかった。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かされた。」
彼女等が、初めてこういう商売をするのだと知った時、どんなに驚き、嘆いたことだろうと考えると気の毒でならない。
Y子は真剣な面持ちで、訴えるように話を続けた。
「今更、悔んだって、嘆いたって仕方のないことだけど、当時は毎曰泣きながら過したの。日本の軍隊が憎らしかった」
彼女は涙ぐんで
「あんた方兵隊さんはいい。内地へ帰れば手柄話をし、戦場の勇士として歓迎されるんだから名誉なことだわ。だけど私達はどうなの。看護婦になれるんだ。軍需工場で働くのだといって出て来て、煙草を覚え、厚化粧して媚を売ることしか覚えないで、看護婦の力の字も知らない。汚れたこの体はどう見たって昔の私には戻らない。親や兄妹に合せる顔もないでしょう」
彼女の頬には、小さな雫が光っていた。私は唯、黙って彼女の話を、椅子にもたれて聞いていた。
「どうせ帰れないんだから、友達とお金を貯めて、どこかこっちで何か商売でもしようと相談しているの……」
将兵達はこのような事情を知っているのだろうか、いや知る必要はなかった。なまじ知っては楽しく遊べなくなるだろう。金儲けに来ているんだぐらいにしか理解していない者が多いと思う。こうした話を聞くと、彼女等は金儲けに来たのではない。すくなくとも命ぜられるまま、日本軍に協力するという理由で、故郷を出たはずである。それだけに哀れという外はない。
「軍曹殿、皆な大声で笑ったり、噪いだりしているけれど、心では泣いているんです。死のうと思ったことも何度もあるんです。この気持解ってもらえるかしら……」
日本軍将兵の戦記
田尻啓『石油に散った火焔樹の花 ある陸軍徴員の従軍記』菁柿堂、1993年。三菱石油社員。
パレンバン近在に駐屯する兵員の増加に伴って、軍では、昨年〔1944年〕あたりから慰安婦の数に不足をきたしてきた。日本から女性を連れてくるには船便が少なくなったので、現地で調達するようになった。軍はその事を当然のことと考えていたようだが、彼女達こそ、戦争がもたらした不幸な犠牲者であつた。
将校宿舎に近い「征空荘」では、そうした現地の女性たちを傭って専ら将校用とし、民間人や兵隊用として新たに「東海楼」を開設した。女性を徴発する時は米や金品を親達に与え、別の目的でもあるかの如く偽って連れてきて、売春の用に供したものであった。
噂を聞いた田中は、パレンバンに出かけたついでに、「東海楼」まで足をのばした。そう広くもない市街地を、料亭「新大阪」に向って行く手前の路地にその店はあった。たまたま開店の日ということで、三十人近くの兵隊や徴員達が玄関から表のほうまで浴れて騒がしかった。
初めのうちは物珍しさと好奇心で眺めていた田中も、バンカ島から連れて来られた殆どの女達が二十歳になるかならないかの生娘達であることに驚いた。彼女達が遣手婆さんにおどかされて、無理やりに客を取らされ泣き叫ぶ有様は、まさに地獄絵に等しく、その日は、恐ろしく逃げ帰った。
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