インドネシア アンボン島

日本軍将兵の戦記

インドネシア アンボン島

 

坂部康正「アンボンは今」海軍経理学校補修学生第一〇期文集刊行委員会編『滄溟』同委員会、一九八三年。

命の心配がなく、食事も充分と言う事となると夜考えるのは女の事、なんで日本女性を泡を食って帰したか、今更くやんでも始まらない。我々ガンルーム〔分隊長配置にない中少尉〕は始めから現地女性とうまくやっていたから不自由はなかったが、収まらないのは偉いさん達、特にM参謀はこの件について御熱心で、転勤前に山県長官〔第四南遣艦隊長官山県正郷中将〕からお許しを得ているからという事で、アンボンに東西南北の四つのクラブ(慰安所)を設け約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とはマレー語で、「日本軍将校と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、きめられた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。
日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと強制収容された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらされるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持になったものだ。
果して敗戦後、この事がオランダ軍にばれて、現住民裁判が行われたが、この計画者は既にアンボンに居らず、それらの女性をひっぱった現地住民の警官達がやり玉に上って処罰された程度で終ってしまった。彼女達が知っているのはひっぱった警官だけで、この事件の真相は間に沈んだ。

中山義隆『命は羽より軽し』近代文芸社、1995年

これは昭和一九年の初め頃だった。海上も安全航行出来なくなっている。船が無いということは前にも行けず下がることも出来ない。我々はこのアンボンに孤立したことになる。
兵姑班は司令部付で給養も良い。食堂と慰安所ニカ所へ兵靖班から食料を補給している。慰安所一カ所は、日本系の女である。一カ所は現地人のインドネシア系である。すれつからしの日本系よりか、純情で若いインドネシア系が人気があった。彼女達はジャワで軍専用の食堂のウェイトレスで高給を支払うとの募集広告により応募した。そうしたら即日採用で有無を言わせず船に乗せられ五十名位、アンボンに送られて来たもので、中には子どものいる者もいる。強制的に慰安婦にさせられた、騙されたと言っていた。私にはその真偽は分からないが軍のやりそうなことである。一日に多い時は兵隊四、五十名を相手とする。昼は兵隊、夜は将校ということになっている。

 

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