ニューギニア ファクファク

日本軍将兵の戦記

福室信四郎『海軍勤務回想録』私家版、2000年。海軍陸戦隊員。

 記述が少し前後するが、それは、昭和一人年(一九四三)七月頃だったと記憶している。
隊内のどこからともなく、慰安所が開設されるらしいとの噂が流れ始めていた。[中略]恐らく隊長や先任下士官、それに通訳を加えた上層部が発案したものであろう。
慰安所開設となると先ず難問題なのが、慰安婦となる女性をどう確保できるかである。仮にこのファクフアクで募集したとしても、地域の住民の殆どがお互いに顔見知りであることから推察して、応募者は多分ないだろうということに落ち着いた。そうだとしたら、他の地域から見つけて来るより仕方がない。だが、人口が僅か五〇〇人程のこのファクフアクが、西部ニューギニアで二番目に大きい街であることを思えば、他は推して知るべしである。所詮、この島から求めることは難事であることが判る。結局、白羽の矢が立ったのが、ファクファクの西方海上約四五Okmにあるアンボン島アンボン市である。
女性募集の担当者は主計科の広田兵曹が選ばれ、これに関通訳が同行することになった。
「若くて美人を見つけて来いよ」
との兵隊達の野次に送られて、一〇〇〇、二人はぼんぼん蒸気の小型船に乗り込んだ。
[中略]この小型船が戻ってきたのは、出航してから約二週間後のことであった。船から上がった広田兵曹と関通訳は、二人の女性を連れて本部に来た。女性の年齢は三〇歳と三五歳ぐらいである。二人とも髪をうしろで束ね、上はブラウス、下にはサロンという住民の普遍的な服装をまとつていた。兵隊達が気にしていた容貌も、まあまあ平均的であるといえよう。
広田兵曹と関通訳は、部長に募集の経過を報告した。以下は、その報告の概要である。
アンボンでは知辺(じるべ)がないため、まず第二四特別根拠地隊司令部職員から女性募集に適任な住民を紹介してもらった。その住民に、女性募集の目的を詳しく説明してから募集を始めた。しかし、仕事が仕事だけに応募者が少なく、募集は難渋を極めた。
応募者が少なかった理由の第一は、一人対一人ならよいが、一人で多人数を相手にすることには、大部分の者が拒否反応を示した。理由の第二は、働く場所が遠く未知のニューギニアであること。これが、陸続きで列車に乗れば簡単にいける土地ならまだよい。万一、仕事が嫌になり、アンボンヘ帰りたくなっても船便が無ければ帰るに帰れない。
話を聞けば尤もである。そこで、思い切って金銭的な条件を良くすることにして、やっとこの二人から承諾を得ることに成功した。隊長もこの話を聞いて、広田兵曹と関通訳の労をねぎらった。
二人の女性は、既に準備してあった街の西端にある家屋に案内され、そこで起居することになった。この二人には、若い方が花子、年上の方が梅子という日本名が付けられた。花子は、細作りでどちらかといえば長身であり、 一方の梅子は、小柄で豊満なタイプといつた好対照の二人である。(中略)
この慰安所も、やがて激しさを加えてきた米軍機の空襲のため、開設後、 一年たらずで閉鎖に追い込まれてしまつた。当然、アンボンヘの船便は途絶え、彼女達はフアクフアクに残留することになってしまった。
昭和一九年(一九四四)九月、戦況の急迫から我々は追い立てられるようにしてファクファクから撤退した。その後、彼女達がどうなったのかは不明である。

 

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