シンガポール セントーサ島

<strong>日本軍将兵の戦記</strong>

「インタビュー永瀬隆 私の戦後処理」青山学院大学プロジェクト95編『青山学院と出陣学徒』私家版、1995年。陸軍第三航空軍燃料補給廠通訳

私が第三航空軍燃料補給廠の通訳としてシンガポールのプラカンマチという島(現在のセントサ島— 戦争博物館で有名)に行っていたある日、十四、五人の朝鮮人の女の子が慰安婦としてそこに連れてこられました。すると、隊長は私に彼女たちに日本語を教えろと言うのです。日本語を知らないと、日本軍が困るからです。そこで私は朝鮮人の慰安婦に日本語を三回くらい教えましたが、彼女たちは私が兵隊でないのを知っ
ていたので、本当のことを話してくれました。
「通訳さん、実は私たちは国を出るとき、シンガポールの食堂でウェイトレスをやれと言われました。そのときにもらった百円は、家族にやって出てきました。そして、シンガポールに着いたら、慰安婦になれと言われたのです。」
彼女たちは私に取りすがるように言いました。しかし、私は一介の通訳として軍の権力に反することは何もできません。彼女たちが気の毒で、なにもそんな嘘までついて連れてこなくてもいいのにと思いました。
やがて慰安婦たちが商売をする慰安所ができたのですが、その慰安所が始まる前に、小太りの隊長が毎晩彼女たち一人ひとりを試しているのを聞かされました。私はそのときから軍隊を変な目で見だしました。これが軍隊かと。やtっていることは前の西欧の植民地よりひどいものでした。

 

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