「日本軍「慰安婦」問題=被害者不在の「合意」は「解決」ではない!〜日韓外相会談・朴裕河問題を批判する〜」講演会参加レポート

能川元一さんに寄稿してもらいました。

 

先に当サイトでも「関連イベント」として告知されていたとおり、2016年2月14日(日)に大阪市のPLP会館にて「日本軍「慰安婦」問題=被害者不在の「合意」は「解決」ではない!〜日韓外相会談・朴裕河問題を批判する〜」(主催:日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク)が開催され、鄭栄桓・明治学院大学准教授が講演者として登壇された。報告者は一聴衆として参加したので簡単に講演の様子を報告したい。
なお報告者は所用のため講演後に会場を離れねばならなかったため、その後の質疑応答や団体アピールなどには立ち会っていない。また、当日配布された資料と私自身のメモおよび記憶に基づく報告であり、もし鄭栄桓さんの実際の発言との間に不一致などがあるとすれば、それは鄭栄桓さんや主催者ではなくひとえに報告者に責のあることである。

 

会場にはほぼ満席と言ってよいほどの参加者が詰めかけ、この問題に関心を持つ市民の年末の日韓「合意」に対する関心(ないしは危機感)の高さを伺わせた。
鄭栄桓さんの講演はまず昨年12月28日の日韓外相会談と朴裕河氏の著書『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版、2014年)との間にどのようなつながりがあるのか? という点についての解説から始まった。外相会談に至るまでの過程に朴裕河氏が関与していたわけでもないのに、この2つのテーマを結びつけることができるのはなぜか? 鄭栄桓さんは日本の主流メディアがこの「合意」を強く支持するわけでも逆に激しく批判するわけでもなく、関心そのものが低調であることを指摘された。そして「もうこの問題は終わったこと」とでも言わんばかりの態度を醸成するのに貢献したのが、いわゆる「リベラル」なメディアや知識人から『帝国の慰安婦』が強い支持を集めているという現象なのだ、と。鄭栄桓さんによれば、『帝国の慰安婦』を読み解くことにより明らかになってくるのは、「日本社会は『慰安婦』がどのような存在であって欲しいと望んでいるのか?」という日本社会の欲望にほかならない。

 

では『帝国の慰安婦』とはどのような書物なのか。鄭栄桓さんはその基本的な主張(テーゼ)を5つにまとめている(報告者によって表現は簡略化されている)。

(1)「朝鮮人慰安婦」は日本人の「慰安婦」と同様な「帝国の慰安婦」である(さらにこれは「帝国の慰安婦」に期待された客観的役割についての主張と、日本兵に対して「同志意識」をもっていた「朝鮮人慰安婦」の主観的意識についての主張に分けることができる)
(2)主犯は「慰安所」業者であり、日本軍の責任は制度の「発想」と「黙認」に対するもののみ
(3)「性奴隷」説批判(行われたのは広義の「売春」)
(4)日本政府の法的責任は問えない
(5)戦後の日本政府は実質的な謝罪と補償を行った

講演の中盤ではこのようなテーゼを導き出すに至る『帝国の慰安婦』の方法の不備への具体的な批判が展開された。同書が資料の強引、恣意的な解釈などの問題点をはらんでしまうのは、本来ならば史料にもとづいてこれらのテーゼが論証されねばならないはずなのに、この本ではテーゼを前提としてそれに合致するように史料が解釈されてしまうからである、という指摘は報告者には大変説得力のあるものに思えた。『帝国の慰安婦』の方法上の問題点の詳細については、いずれ主催者からなんらかのかたちで発表されるであろう講演の記録か、まもなく刊行予定の鄭栄桓さんの著書をお待ちいただきたい。あるいは鄭栄桓さんのブログ「日朝国交『正常化』と植民地支配責任」の記事のうち、まずは「朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について」(1)〜(7)を参照されたい。ここでは、『帝国の慰安婦』という本とのつきあい方について鄭栄桓さんが示された、実に明快な整理についてご紹介しておきたい。

 

『帝国の慰安婦』の本文は次のような一節で始まっている。

 

「慰安婦」とは一体誰のことだろうか。韓国にとって慰安婦とはまずは〈日本軍に強制連行された朝鮮人の無垢な少女たち〉である。しかし慰安婦に対する謝罪と補償をめぐる問題―いわゆる「慰安婦問題」をなかったものとする否定者たちは、〈慰安婦とは自分から軍について歩いた、ただの売春婦〉と考えている。そしてこの二十余年間、日韓の人々はその両方の記憶をめぐって激しく対立してきた。(『帝国の慰安婦』23ページ)

 

ここではニセの二項対立が提示されていることを鄭栄桓さんは指摘する。「韓国」に対置されるのは「日本」ではなくなぜか「日本の否定者」である。しかもその「日本の否定者」の主張は極めて狭く理解されている。ここで抜け落ちているのは「慰安婦」たちの境遇が悲惨であったことはあえて否定せず、しかし日本軍・日本政府の責任は認めようとしないような歴史修正主義者たちの主張—鄭栄桓さんが永井和・京都大学教授の表現を借りて「日本軍無実論」と評するものである。このニセの二項対立をうけいれて『帝国の慰安婦』を読んでしまうと、この本があたかも日本の歴史修正主義にも反対しているかのような印象をもってしまうことになるが、実際には『帝国の慰安婦』の主張は事実上の「日本無罪論」にほかならない。
『正論』や『WiLL』といった論壇誌上で展開されている日本軍「慰安婦」問題否認論を実際に読んでいれば、「日本の否定者」たちの主張を〈慰安婦とは自分から軍について歩いた、ただの売春婦〉と要約してしまうのが誤りであることは明らかだ。
以上のような「ニセの二項対立」についての指摘は、『帝国の慰安婦』を正しく読むための重要な鍵であるとともに、「なぜこの本がいわゆるリベラルなメディア、知識人にも高く評価されてしまうのか?」を理解するうえでも重要な鍵を与えてくれると思われ、報告者は非常に感銘を受けた。

 

『帝国の慰安婦』によってあたかも歴史修正主義的ではないかのように偽装された「日本無罪論」は、昨年末の日韓「合意」における日本政府の立場でもある。岸田外相の発表が「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」としながらも、その傷つけた主体が誰であるかについては「当時の軍の関与の下に」というあいまいな表現しか用いていなかったことを思い出していただきたい。このような「合意」に対して主要メディア、主要政党から強い反対が出てこないという現状と、『帝国の慰安婦』に対してこの社会が与えた高い評価とはたしかに密接に結びついているように思われる。「朴裕河現象」を問いなおすことはいまの日本社会を問いなおすことにほかならない、という思いを新たにして報告者は会場を後にした。このような有意義な集会を企画・実行してくださった主催者にお礼申し上げたい。

 

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