【被害者証言】万愛花(中国)

万愛花 イラスト_s●1930年、内蒙古で生まれる

●中国

●連行年(年齢):1942年6月・8月・12月(又は1943年1月)

●連行先:中国山西省進圭社の日本軍の拠点

●証言概要:

池田 15万愛花さん被害の家_s

万愛花さんが3回監禁された進圭社村の清郷隊(日本軍の手先になった中国人の武装集団)本部だったヤオトン。ここでは抗日派とされた人々が監禁され拷問を受けた。宋荘村から連行された郭喜翠さんや李荘村の周喜香さんもここで監禁・強かんされている

抗日の村で副村長になりました

1930年、内蒙古で生まれた私は4歳の頃、「童養媳(トンヤンシー)」として山西省盂県の羊泉村の貧しい家に買い取られました。30歳を越えていた夫には村に愛人もいて幼い私など相手にせず、家に寄りつきません。日本軍が山西省に侵入して私たちの地域でも抗日運動が始まり、羊泉村にも共産党系の民衆組織ができました。私はその一つの児童団に加わり、やがて婦女抗日救国会に入って、そのリーダーになりました。数え年14歳の時には共産党員になって八路軍のために夢中で働きました。宣伝活動や見張り、伝令、情報集めから兵士の靴作りなど、家にいるよりずっと楽しかったのです。私の活動は評価されて、わずか15歳でしたが抗日の副村長に任命されました。そのために日本軍に捕まり、激しい拷問を受けることになりました。

ひどい拷問と輪かんを受けても 黙秘しました

初めに捕まったのは1942年(あるいは43年)の6月半ば頃のことです。村に侵入した日本軍に進圭社の拠点へ連行され、抗日分子を監禁・強かんするヤオトン(横穴式住居)に監禁されて「共産党の情報を出せ」と殴られました。この時は1週間後に窓を壊して逃げました。

2回目はその年の8月頃、池で洗濯をしている時に捕まり、同じヤオトンに監禁されました。最初の夜は全裸にされて何人もの兵士に強かんされました。待っている兵士は、周りで笑いながらそれを見ていました。強かんの後は拷問です。私が党員の名前を言わないので、ベルトや棒、銃の台尻などで殴り、意識を失うと水をかけて蘇生させ、拷問を繰り返しました。この時も監視の隙をつき、戸をこじ開けて逃げました。

3回目はその年の12月か翌年の正月です。村人たちと一緒に捕まって、また進圭社で監禁されました。ヤオトンは逃げられないように、窓も戸も塞がれていました。毎日の輪かんと拷問は、さらにひどいものでした。私は白状したところで殺されると思い、黙秘を続けました。すると彼らは私を庭の木に吊り下げて脇毛を抜き、銃床で殴り軍靴で蹴りました。指と指の間の関節がはずれ、肩の付け根や腿が骨折し、釘の付いた板で頭を殴られ、イヤリングごと耳たぶを引きちぎられました。水をたくさん飲ませられた後、棒で腹を押され、吐かされました。私は意識を失い、死んだと思われて、裸のまま冬の川辺に捨てられました。そこを一人の老人に助けられて、奇跡的に生き延びたのです。

どんなに年老いても 日本政府と闘い続けます

命はとりとめたものの、私は長い間寝たきりになりました。体中を骨折し、骨盤がなくなって背丈が縮んでしまい、物につかまって歩けるまでに2,3年もかかりました。娘と一緒にあちこちの村を転々としながら裁縫の仕事や物乞いもしなければなりませんでした。小さな娘は私の手を引いて歩き、身の回りの世話もしてくれて、本当に苦労をかけました。拷問による後遺症は身体のあちこちに残って、今も私を苦しめています。太原に住むようになったのは1959年からでした。

中国人として世界に向けて初めて日本軍による性暴力被害を訴えたのは、1992年の国際公聴会の時です。1996年に再び日本で証言をした時、日本の友人たちに「日本政府を相手に裁判をしたい」と打ち明けました。1998年に提訴。私が娘に自分の受けた被害について話したのは、1996年になってからでした。娘は今でも私の傍を離れずにいてくれます。2000年の女性国際戦犯法廷でも、原告として被害証言を行いました。私たちを「慰安婦」という言葉で呼ばれるのは我慢できません。私たちは日本軍の性暴力被害者なのです。

このところ病気が重くなって入退院を繰り返していますが、嬉しいのは日本の支援団体の皆さんの努力で私たちの闘いを伝えるパネル展が各地で開かれて、若い世代が訪ねてくれるようになったことです。私の病状が報道されると、ネットで知ったたくさんの人からカンパが寄せられるようになりました。仲間たちが高齢になって次々と亡くなっているのは辛くてたまりませんが、私はどんなに身体が弱ってもまだまだ闘い続けます。(2013年9月4日 死去)

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