【被害者証言】ロザリン・ソウ(マレーシア)

ロザリン IRASUTO_s

  • 1920年生まれ
  • 2002年12月 2日、老人ホームRumah Seri Kenangann(タイピン)で死去
  • マレーシア(ペナン島)出身
  • 連行年:1943年(23歳)
  • 連行先:ペナン島ビルマ街にあるトンロックホテル

●証言内容

※女性国際戦犯法廷での証言映像はこちら

私はペナン島で生まれました。戦争が始まった時はペナン島に住んでいました。小さな子ども2人を抱えて離婚し、ジェルトンの市場のすぐそばの家の一間を借りて母子で暮らしていました。生活はすごく苦しかったのですが、友だちがダンサーになれば収入がよくなると、ダンスを教えてくれました。

1943年の深夜3時頃、日本兵がローリー(注:トラックのこと)に乗って町にやってきて、家々から女性を引きずり出していました。私は幼い子ども2人をかかえていたので、自分が捕まるとは考えていませんでした。私を捕えようとする日本兵に必死で抵抗しましたが、力づくでローリーの上に放り込まれてしまいました。そこには、数人の女性がうずくまっていました。私たちはビルマ街にあるトンロックホテルに連れて行かれました。ホテルの入り口には慰安所の看板がかかっていました。

そのホテルには30人ぐらいの女性が監禁されていました。私は、小さな部屋に入れられ、それからというもの、毎日朝8時から夕方の5時まで兵隊に、夜は将校に強かんされ続けるという生活が始まったのです。1日2回、朝と夜に食事が出ました。その慰安所では、多い時は1日30人ぐらいの兵隊に強かんされました。ベッドに横たわったまま、服を着る暇もありませんでした。日本兵は乱暴で、酒に酔っていることが多く、気に入らないことがあると蹴ったり殴ったりしました。よく頭や顔を殴られました。

慰安所に監禁されている女性たちを監督しているのは70歳ぐらいの日本人の女性で、みんなは「おばさん」と呼んでいました。ある日、ホテルの前でいつも客待ちをしている人力車夫が、子どもは近所の人たちが面倒をみているから心配するなと伝言してくれました。本当にほっとしました。

1944年になって妊娠してしまいました。慰安所の女性たちの間では、妊娠した女性はいつの間にか姿が見えなくなる。連れ出されて殺されるらしいという話が信じられていました。私は産み月が近づくと恐怖に駆られ、「おばさん」に必死で病院で出産したいと頼みました。ようやく許可をもらって、慰安所のホテルから出ることができ、無事に病院で女の子を出産しました。ペナン州出生登録証明書を記入する際、父親の名前を書く欄がありました。困っていると、病院の事務員をしていた日本人が自分の名前を書いておけといってくれたので、その女の子は「フリーダ・ローズ・坂本」として届けを出したのです。届けには「紀元二千六百五年(注:1945年)二月十二日」と記入されていました。

私は、慰安所には戻りませんでした。

1994年3月9日から14日まで東京で開催された「女性の人権アジア法廷」で、「慰安婦」制度の被害者である韓国の金福童さん、在日の宋神道さん、フィリッピンのヴィクトリア・カンラス・ロペスさんが、何百人もの聴衆の前で証言したことを、マレーシアの日刊紙スターで読みました。戦争が終わってから私は誰にも自分の経験を話したことはありませんでした。この記事を読んで、初めて私は1人ではないと思ったのです。私も語るべきだと思いました。

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