【被害者証言】ヌラ(インドネシア)

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  • 生年月日 (1931年ごろ)
  • Nurah 南スラウェシ州ブギス出身
  • 連行年(年齢):13歳
  • 連行先:インドネシア 南スラウェシ州ブギス近くの慰安所

●証言概要

きょうだいで母を助けた日々

私は、6人きょうだいの3番目として生まれました。私がまだ母のお腹の中にいた時に父は病気で亡くなってしまったため、私たちきょうだいはみな、母に育てられました。私は小さい時から、畑で一所懸命はたらく母を助けることが好きでした。年上のきょうだいと一緒に町の市場で人々が好きな「豆ご飯」を売っては、生活の糧にしていました。

家の家計に少し余裕がでてきたのは、私が13歳の時でした。そこで母は私を国民学校に通わせてくれたのです。学校教育を受けることができたことが後に不運を引き寄せることになろうとは、誰も予想していませんでした。

兵隊に突然銃剣を突き付けられ、誘拐されました

その日、私はいつものように4人の友だちと一緒にお喋りをしながら学校への道を歩いていました。前の方に1台のトラックが停まっているのが見えました。私たちがトラックに近づくと、いきなり3人の日本兵が飛び降りてきて、私たちに銃剣を突き付けたのです。

日本兵は「mati kamu, mati kamu!」(「おまえは死んでいる、おまえは死んでいる」)と、変なインドネシア語を叫びながら、私たちの行く手を阻みました。私たちは恐怖のあまり身体が棒のように固まってしまいました。日本兵が言った言葉は、日本人の発音に慣れていなかった私たちの聞き間違えで、「mati”(死んでいる)」ではなく、「mate”(待て!)」であることを知ったのは、それからずっと後のことでした。

日本兵たちは私たちを米袋のように抱えて無理やりトラックに投げ込みました。学校にいく途中の出来事だったため、私たちの両親は私たちが日本兵に無理やり連れて行かれたことを知るすべもありませんでした。私たちはそのことに気がつくと、恐怖のあまり息ができず、ただ泣くのが精一杯でした。

布で仕切ってある慰安所で、1年も強かんされました

私たちを乗せたトラックが走り出して間もなく、急停車しました。すると、悲鳴を上げた少女たちがトラックの荷台に投げ込まれてきました。彼女たちも通学中に捕まったのです。

トラックは人里離れた場所まで来ると止まりました。そこには竹の壁でできている家が6軒ありました。そこが慰安所であったことは、後で知りました。

その日、私はそこで日本兵たちから強かんされました。門の前には2人の日本兵がつねに監視の目を光らせていました。私たちは12カ月もの間、そこに監禁され、日本兵の性欲に「仕え」ることを命じられたのです。

その家には、10人ほどの少女たちが監禁されていました。部屋はカーテンのような布切れで仕切られているだけで、1人の日本兵がカーテンを越えてふたりの少女を同時に強かんすることもありました。布一枚の仕切りのため、「客」の来ない時に隣の「 部屋」に兵隊がくると、その少女の泣き声が聞こえることがよくありました。

「家の恥」と追い出されました

日本が連合軍に敗けると、私は慰安所から解放されました。私は長い道のりを何日も歩いてやっと自分の村に辿り着きました。けれども母は私が日本兵の「慰安婦」にされたことを「家の恥」だとして、私を追放したのです。しかし、その後、母は自分の判断が間違っていたことに気づきました。その出来事は、私が自分で引き寄せたものではなかったからです。私は再び家族の一員として迎え入れられました。

戦後

私はいま、1人の子どもと一緒に村で暮らしています。その子は、私が慰安所から解放されて村に帰ってから数年後に結婚した夫との間にさずかった一人っ子です。けれども、この子は日本軍がインドネシアを占領した時代に、私の身に何が起こったのか、実のところよく理解していないようです。それは、何があったのかを、私が子どもにはっきり語ることをためらっていることもありますが、子どもも真相を知ることの怖さに囚われているようです。社会的偏見も怖くて、いくら苦しくても沈黙を選ばなければならない意識に、私たち親子はせき立てられてきたのです。

(インタビュー:エカ・ヒンドゥラ 翻訳責任者 木村公一)

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