【被害者証言】イアン・アパイ(台湾)

イアン・アパイ イラスト_s

  • 1927年生れ。2013年逝去
  • イアン・アパイはタロコ族の名前で、中国名は林沈中
  • 連行先:台湾 花蓮、榕樹村

●証言概要

■日本の植民地下で「日本人」として過ごした日々

子どもの頃、村では駐在所の日本人の警官がすべてを取り仕切っていました。私たちは「蕃童教育所」で日本語で「国語」や「修身」を教えられ、「お国のために」一生懸命働くこと、「天皇陛下に尽くす」ことが何より大切だと思っていました。

戦争が始まると、3人の兄たちも「高砂義勇隊」として南方に出て行き、長兄はニューギニアで戦死しました。遺骨を受け取りに町に行った父が胸に遺骨を抱いて帰ってくると、「名誉の戦死」だと言って、駐在所の指揮で日本式の葬儀が営まれました。

■昼は部隊の雑用、夜は強かんされる日々

村に日本の陸軍の部隊が入ってくると、住民は近くの銅門へ移住させられ、山には洞穴を掘った倉庫がいくつも作られました。やがて女性たちは部隊の雑用のために「勤労奉仕」に動員されるようになりました。私たちの村からも何人かがもとの村にある日本軍の部隊に通うことになりました。仕事は軍人のための軍服の洗濯や繕い、炊事などで、その頃は自宅から部隊に通っていたのです。

ところが何カ月かたったころ、監督のナリタ軍曹から、夜も仕事があるので営舎に住み込むように命令されました。そこで、恐ろしいことが起こりました。1人ずつ洞窟の倉庫の中に引っ張り込まれ、兵隊が襲いかかってきたのです。下半身が痛み、血が流れました。やっと洞窟の外に出ると、次の女の子がまた連れ込まれます。みんな涙を流しながら、休憩所に戻り、うなだれて座っていました。

このように、昼は部隊の雑用、夜は何人もの兵隊に強かんされる日々が続きました。コンドームは支給されず、妊娠して身体の具合が悪くなると軍医が薬をくれました。それを飲むと気分が悪くなり、何度か流産しました。

■敗戦後も強かんは続きました

日本の敗戦も知らされず、1945年の8月末のある日、突然、軍隊はいなくなりました。それで、私たちは自分たちの村に戻りました。しかし、翌年まで残った数人の軍人たちは自分たちの住むところに女性たちを連れて行き、何人もで強かんをし続けました。彼らが帰って行ったのは、翌年1946年でした。

■二度の結婚も噂が原因で破たんしてしまいました

自分が受けた被害のことを両親にも話すこともできないまま、私はずっと心の傷を抱えて暮らしました。結婚しましたが、最初の結婚は「兵営の中に閉じ込められた女」だという村人の噂のために破たんし、その後2回結婚しましたが、2回とも同じ理由で離婚されてしまいました。

■心に突き刺さる痛みを抱えて生きてきました

毎朝、家の裏に見える倉庫のあとを見るたびに、心の中に鋭い刺が突き刺さるような痛みを覚えたものです。ずっと自分の一生は何だったのかと、その運命を悲しんできました。

亡くなった両親は、その頃日本に禁じられていたキリスト教の信者で、森の中にかくれてこっそり礼拝していましたが、私は長い間、キリスト教を信じる気持ちにもなれませんでした。私の苦しみが、そんなことで解決されるとは思わなかったからです。けれども、人生の終わりに近づいた今、聖書の言葉を読み、救いを受け入れて、やっと自分を憐れむことがなくなりました。

目次