6-4 植民地下の朝鮮は平和だったのか?

 日本のアジアへの侵略戦争というと、多くの人は満州事変以降の「15年戦争」を想起しがちです。しかし、日本の植民地とされた朝鮮や台湾から見れば、日清・日露戦争以降、日本は当該地域の民族運動に対して軍事力・警察力を用いた熾烈な弾圧を繰り返し、民衆に対しても幾多の人権蹂躙を行なってきました。こうした視点に立てば、日本は日清戦争以降、「50年戦争」を戦っていたのであって、「十五年戦争」以前は侵略戦争のない「平時」「平和」な時代であったとすることはできません1

 また、植民地における人権蹂躙や民族運動は、朝鮮社会においては「非日常」的な出来事にすぎないのであって、植民地社会を生きる人々の「日常」はそれとは異なる「平和な」生活であったと考える人もいます。もちろん、植民地の人々にも日常生活があるのは当然のことです。しかし、植民地支配の「近代化」によって、人々の平和な「日常」がもたらされ、朝鮮人の大半が植民地支配に感謝をしているかのように捉えるのはあまりに一面的な見方です。たとえば、『マンガ 嫌韓流』は、日本人が朝鮮社会の近代化に努めたということを強調しながら、「あの時代、確かに日本人と朝鮮人の友好関係が存在したのね」(228頁)などと、登場人物に語らせています2

 はたして、植民地下の朝鮮では、日本によって平和がもたらされたと言えるのでしょうか?

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朝鮮植民地化と「暴徒討伐」=治安戦

 日本は、日露戦争以降、朝鮮の植民地化を進めていきますが、その過程で愛国啓蒙運動3と義兵戦争が起こりました。とりわけ、後者は武装蜂起による全国的な抗日戦争となりました。日本は、運動を軍隊・憲兵・警察によって武力で徹底的に弾圧し(「暴徒討伐」=治安戦4)、そこでは「膺懲ようちょう」(懲らしめるという意味)という言葉がさかんに用いられました。その内容は、抗日運動の根拠地の焦土化、徹底討伐、村落連座制5の適用など苛烈なものであり、日本兵による朝鮮人女性に対するレイプも報道されています6

 全羅南北道では1909年9~10月に「南韓大討伐作戦」が行なわれましたが、その目的は「帝国の威信」を朝鮮人に見せつけることと、「邦人の対韓事業の勃興」、すなわち利害の推進にありました。植民地化過程においては、「開発」と「治安戦」が同時に進行するのであって、植民地支配下においても、「開発」が暴力を背景に行なわれることを考えれば、「開発」の推進=日本人と朝鮮人の友好、「治安戦」=例外状態、と区分けすることはできないわけです。

 さらに、日本による朝鮮植民地化は、朝鮮社会に「治安戦」をめぐる緊張を恒常化させるきっかけにもなりました。義兵弾圧のために導入された自衛団規則(1907年11月)は、憲兵・警察・軍隊の指揮下で村落に自衛団を置き、義兵たちの武器の摘発、義兵への帰順の奨励、見回り警戒、義兵に対する偵察を行なわせて義兵をあぶり出そうとする構想であり、日常生活の場である村落において、支配と抵抗をめぐる軋轢を深刻化させていきました。

 また、愛国啓蒙運動に対しても、1907年7月27日には保安法を施行し、内部大臣が結社を解散し、警察官は集会や大衆運動を制限・禁止することができるようにしました。

「武断政治」と民衆の日常生活~1910年代

 「韓国併合」前後の時期になると、抗日義兵はほぼ鎮圧されました。しかし、そのことによって植民地に平和な「日常」が訪れたわけではありません。軍隊の義兵弾圧の主力であった朝鮮駐箚軍は、一個半師団クラスの編成から、のちに二個常設師団体制の朝鮮軍へと拡大・再編されていきました。また、日本は「併合」後も民衆の反乱を恐れ、予防的に厳しく取り締まるために、義兵弾圧の際と同等の規模をもった憲兵警察による支配を続けました。総督武官制の下、力の支配を前提とした1910年代の植民地支配のあり方を「武断政治」と言います。

 憲兵警察の業務は、情報の収集と「暴徒討伐(治安戦)」という従来の軍事警察の職務に加え、民衆生活全般を管掌するもの7へと拡大し、警察犯処罰規則の施行(1912年4月)によって、87条目の日常行為が拘留と科料の対象とされました。たとえば、「流言浮説」「祈祷」「石戦(民間習俗のひとつ)」「道路掃除の怠惰」といったものから、「生業なく徘徊」することまで入っていたのです。

 これらの取り締まりは、「犯罪即決例」(1910年12月)によって、拘留、笞刑ちけい8、または科料に相当する罪、3カ月以下の懲役または100円以下の罰金などの罪について、裁判所の手続きを経ずに警察署長または憲兵隊長がその裁量で即決できるようになりました。その結果、即決処分件数は、1911年1万8100余件から1918年には8万二2100余件へと急増しました。さらに、朝鮮人にのみ朝鮮笞刑令が適用され、執行数は1911~1916年にかけて約5倍に増大しました。日常生活の治安対象化が急激に進んだと言えるでしょう。

憲兵による民衆に対する講話 1915年 出典:『軍事警察雑誌』9-6(1915年6月)

 特に風俗警察においては、売春管理法である「貸座敷娼妓取締規則」が制定されるなか、酒幕営業者が民族運動を匿っていると疑い、厳しく取り締まりました(植民地公娼制については5-1参照)。

 これらの取り締まりは、朝鮮人憲兵補助員が行商人、学生、神官、僧侶、土木夫、俳優、郵便夫、洋服屋、石工、古着商、古鉄売、乞食、鳶職、請負業者、農夫、樵夫、傷病者、車夫、遊戯人、煙突掃除夫、飴売、尼などに変装して常に調査に当たらされていました。

憲兵による変装演習(前列が日本兵、後列が朝鮮人憲兵補助員)1914年 出典: 『軍事警察雑誌』8-10(1914年10月)

文化政治以降の展開~1920年代

 三・一独立運動(1919年)をきっかけに、「武断政治」から「文化政治9」へと植民地統治のあり方は一定の変化を余儀なくされました。しかし、民衆を「騒擾そうじょう予備軍」とみなし、日常生活から予防的に厳格に取り締まる発想の根本が変わったわけではありません。警察官の数、警察費、警察官署数も約3倍に増強され、銃器の大量配備や軍隊式訓練を強化し、戸口調査を通じた人民監視も強化されました。

 「文化政治」当初、言論・出版・集会・結社の取り締まりがいくぶん緩和され、朝鮮語新聞・雑誌の発行、団体の結成などが行なわれました。しかし、新聞・雑誌には検閲が厳しく、集会も厳しく臨席監視され、演説内容で逮捕されることも日常茶飯事でした。さらに、1925年5月には治安維持法が施行され、1920年代後半に六・一〇万歳運動、元山ウォンサンゼネスト、光州クァンジュ学生運動など、民族運動、社会主義運動が活発すると厳しく弾圧されました。1936年12月には朝鮮思想犯保護観察令を交付し、治安維持法違反者で執行猶予、起訴猶予となった者、出獄した者を「保護観察」処分にして、思想転向の促進を図っていきました。警察の社会指導体制もいっそう強化され、一般行政との相互補完関係を深化させるとともに、総力戦期には経済警察を設置して、民衆の経済生活への接近・統制を強めていきました。

日本敗戦まで続いた武力弾圧

 中朝の国境付近では、一貫して武力による民族運動の弾圧が行なわれました。三・一独立運動後、憲兵の役割は、「在間不逞ふてい者の掃討」、すなわち間島10での独立軍をはじめとする朝鮮人の民族運動の取り締まりに集約されます。その職務は、「国境憲兵は平地帯の憲兵と異なり、不逞鮮人の警戒で戦時勤務と同様である」と認識されていました11。この後、「治安戦」は、対象の重点を東北抗日連軍の活動する「満州」へと移し、繰り返されていきました。

 こうした警察・憲兵・軍隊による朝鮮人の取り締まりは、その後、1945年8月15日まで基本的に持続しました。それでも、植民地の日常生活には、こうした「治安戦」や厳格な治安維持からは無縁な、近代化された「日常」があったということばかりを強調し、「十五年戦争」においてすら、朝鮮半島は帝国の一部であって「戦場でない12」と強調することは、こうした植民地支配の基本的な性格を矮小化することになるのではないでしょうか。        

  1. 「50年戦争」については、宋連玉「公娼制度から「慰安婦」制度への歴史的展開」(VAWW-NET Japan編『「慰安婦」戦時性暴力の実態Ⅰ』緑風出版、2000年)
  2. 板垣竜太「『マンガ嫌韓流』と人種主義―国民主義の構造」『季刊前夜』11号、2007年春号など。
  3. 愛国啓蒙運動とは、教育や産業などによる実力養成を志向し、都市の開明的知識人を中心に展開された国権回復運動のこと。大韓自強会と、その後継団体である大韓協会が代表的な団体。
  4. 「治安戦」とは、一般的にはゲリラなどの反政府勢力を殲滅しようとする軍事・警察行動のことで、いわゆる「非正規戦」のことを指す(ただし、これは植民地においてはあくまで支配側の認識であって、抵抗する側は「正規軍」の認識を持っているということに注意を払う必要がある)。
  5. ここでいう「村落連座制」とは、1907年9月に長谷川軍司令官が朝鮮全土に出した告示にある「或は匪徒に与し、或は之を隠避せしめ、或は兇器を蔵匿する者に至りては厳罪毫も課す所なくのみならす、責を現犯の村邑に負はしめ、其部落を挙て厳重の処置に出んとす」(「明治40年9月軍司令官ノ告示」韓国駐箚軍『明治40~42年暴徒討伐概況』〈中央―千代田史料623〉防衛庁防衛研究所図書館所蔵。句読点は引用者)という部分のこと。この告示後、日本軍は非協力的な村落に無差別な虐殺・焼夷を繰り返すことになった。
  6. 「日兵行悪」『大韓毎日申報』1907年8月30日。
  7. 民事訴訟調停・国境税関業務・山林監視・民籍事務・種痘・外国旅券・郵便護衛・旅行者の保護・屠獣検査・検疫・海賊密漁船密輸入警戒取締・害獣駆除・墓地取締・労働者取締・日本語普及・道路改修・殖林農事改良・法令普及・納税義務の論示など。
  8. 笞刑とは、笞(むち)で受刑者の臀部を打って苦痛を与えて懲らしめるいわゆる「体罰刑」の一種。朝鮮では刑罰(五刑)の一つとして、軽微犯罪に適用される笞刑が浸透していたが、大韓帝国期には笞刑は「野蛮」な刑として減少した。しかし、日本は武断政治下で、朝鮮人にのみ適用される朝鮮笞刑令を公布し、笞刑を憲兵分隊長の即決権限で適用できるようにした。その背景には、精神的苦痛が鈍いので、迅速に痛苦を実感し得る体刑を科する外ない、という植民地主義的な蔑視観であった。
  9. 斎藤実が示した施政方針にもとづく植民地統治のあり方。①総督の陸海軍統率権の削除と総督武官制の廃止、②普通警察制度の導入、③言論・集会・出版等に考慮、⑧朝鮮の文化・慣習の尊重、などをさし、そこには、同化政策をより巧妙に進め、朝鮮人上層の一部を懐柔し、民族運動は徹底的に弾圧する分裂支配を行なう特徴があった。
  10. 現在の中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯のことをかつてこのように呼んだ。
  11. 恵山鎮小林生「国境憲兵と不逞鮮人」『軍事警察雑誌』第一五巻第四号、1921年4月。
  12. 朴裕河『帝国の慰安婦』朝日新聞出版、2014年、46頁。
<参考文献>

朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配』上下、青木書店、1973年。

松田利彦『日本の朝鮮植民地支配と警察―1905~1945年』校倉書房、2009年。

姜徳相「繰り返された朝鮮の抵抗と日本軍の弾圧・虐殺」『前衛』2010年3月。

愼蒼宇「抗日義兵闘争と膺懲的討伐」田中利幸編『戦争犯罪の構造』大月書店、2007年。

愼蒼宇「朝鮮半島の「内戦」と日本の植民地支配―韓国軍事体制の系譜」『歴史学研究』885号、2011年10月。

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