慰安婦」被害者の女性たちは、自発的に「慰安婦」になったのではありません。日本軍に直接連行されたケース、日本軍が占領した村の代表者に女性を差し出すよう命令した結果、差し出されて「慰安婦」にさせられてしまったケース、「工場で働かないか」などという,うその勧誘にだまされて「慰安婦」にさせられてしまったケース、貧乏だったため、親に売られて「慰安婦」にさせられてしまったケースなどがほとんどです。そして、いずれのケースにしても、慰安所では軍の許可なく慰安所を抜け出すことはできず、本人の意思に反して性奴隷状態を強いられました。
貧乏のため、親に売られて芸妓や娼妓となり、その後、借金が増額してしまったところを、店主や、軍の命令を受けた業者たちの勧誘を受けて日本軍「慰安婦」になった女性たちもいます。 つまり、もともと売春をしていた女性たちが、「慰安婦」になるとわかっていて日本軍「慰安婦」になったケースです。日本人の「慰安婦」被害者にしばしばみられることがわかっています。しかし、このケースの場合も、「自発的に「慰安婦」になった」と言うことはできません。なぜならば、当時の売春する女性たち、つまり娼妓や芸妓、酌婦たちは皆、前借金にしばられて廃業の自由のない状態で売春を強要され続けていたからです。もともと奴隷的状態にいた女性たちが、他に借金を返済する道がなく、しかたなく「慰安婦」になる道を選んだに過ぎないからです。
いくつかの事例を見てみましょう。
①1925年に夕張に生まれた山内馨子(菊丸)さんは父の仕事の失敗による貧困のなか、10歳で東京の芸妓置屋に300円の前借金で売られました。借金は増え続け、1942年、「慰安婦」になれば軍が前借金の肩代わりをしてくれると聞き、4000円の借金返済目的と「死ねば靖国神社に入れてもらえる」との思いの中「慰安婦」に応募、「トラック島」で将校専用の「慰安婦」にさせられました(『週刊アサヒ芸能』1971年8月12日、1973年8月2日、『別冊歴史読本 戦記シリーズ 第25巻 女性たちの太平洋戦争』新人物往来社、広田和子『証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭』同上、1975年)。
②鈴本文さんは1924年に志摩半島の村で生まれ、7歳で身売りされて芸者として働きましたが、2000円の借金を解消するため、18歳のとき1年契約で「トラック島」の慰安所に行きました(「告白!戦争慰安婦が生きてきた忍従の28年 長く暑い夏に放つ三代ドキュメント いまだ“後遺症”を背負い報われることのない戦争犠牲者たち」『週刊アサヒ芸能』1973年8月12日、前掲『証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭』)。
③1921年に東京で生まれた城田すず子さんは、父親の事業の失敗で女学校時代に芸者屋に売られました。借金返済のため、17歳で台湾の膨湖島へ渡り、その後、サイパン、「トラック島」、パラオなどへ行き、慰安所で働いたのです(城田すず子『マリヤの賛歌』日本キリスト教団出版部、1971年7月)。
いずれのケースも、前借金に縛られて廃業の見込みのない売春生活を強いられているところへ、日本軍「慰安婦」になると、借金返済できて自由になれると勧誘され、「慰安婦」になるしか選択の余地がないと思わされたなかで「慰安婦」となったことが見て取れます。また、「死んだら靖国神社へ入れてもらえる」「お国の役にたてる」といったナショナリズムを喚起されたことも原因であることがわかります。芸者や娼妓・酌婦の女性たちは、苦しい仕事をさせられただけでなく、世間から厳しい差別を被っていたために、国の役にたてる、国に認められるということは、人一倍魅力的に感じられたことでしょう。
日本軍は、このように社会の底辺にいた女性たちの苦しみにつけこんで「慰安婦」に徴集したのです。それを自発的に「慰安婦」になったとみることはできません。しかも、強調しておかなければならないことは、「慰安婦」になる前に彼女たちが強いられていた廃業の見込みのない売春生活(事実上の性奴隷状態)とそれを認めていた公娼制度は、当時の日本においても、また国際社会の基準においては一層、すでに許されないものになっていたのです。つまり、公娼制度下の身売りの慣習が禁止されており、別の職業選択の道が存在していたならば、彼女たちは「慰安婦」になることもなかったでしょう。国際的に禁止されていたにもかかわらず,普段から,貧困な女性たちを性奴隷状態に置いていた日本社会と,それを黙認し続け,戦時に利用した日本軍と日本政府の責任が問われているのです。