日本軍が慰安所を作った理由の一つが強姦を防止するためでした。だから一般の女性を守ることができてよかったのだという議論さえあります。はたして本当でしょうか。
日本軍が慰安所を中国各地に作りはじめたのは1937年の冬からでした。しかしそれから3年近くたった1940年9月に陸軍省が作成した文書によると(「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」)、依然として日本兵による「強姦」「強姦致死傷」が多いと指摘されています。
アジア太平洋戦争が始まってから、東南アジアでも各地に慰安所を設置しましたが、開戦から9ヶ月たった1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し。慰安設備不十分」(陸軍省の会議での法務局長の報告)と報告されるような状態で、1943年2月にも「強姦逃亡等増加せる」と報告されるようなありさまでした。
戦争末期の沖縄では、米軍の来襲に備えて日本軍が次々に増強されました。日本軍は当初から沖縄に慰安所を設置していきましたが、日本軍の資料によると「本島に於ても強姦罪多くなりあり」「性的非行の発生に鑑み…」というように地元女性への強姦などが相次ぎ、軍上層はくりかえし兵士たちに注意を発せざるをえませんでした(「石兵団会報」)。
日本兵による地元女性への強姦は慰安所設置にかかわらずずっと続いていたのです。
慰安所を利用することと地元女性への暴行はどのような関係にあったのでしょうか。中国の河北省と山西省についての研究によると(笠原十九司「中国戦線における日本軍の性犯罪」)、日本軍による強姦や強姦殺害は戦争中を通しておきています。ただその場合、日本軍が駐屯し支配していた「治安地区」では強姦は憲兵によって厳しく取締まられました。ここでは日本軍は善政を施していることを示す必要があったからです。
ところが抗日勢力が強く日本軍の力が及ばない地域は「敵性地区」と呼ばれていました。ここでは日本軍はいわゆる「三光作戦(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)」と呼ばれた皆殺し作戦をおこないました。どうせ殺すのならばと、女性を強姦したり、拉致してきて慰安婦にすることが野放しにされました。つまり日本軍の駐屯地などでは強姦は取締まられ慰安所を使うことが奨励される一方で、抗日勢力の粛清などのために出かけた場合には強姦や略奪が放任されたのでした。
ですから慰安所が作られたから強姦がなくなったのではなく、慰安所と強姦は並存していたのが実態なのです。フィリピンや中国でしばしば見られたように強姦とともに日本軍による慰安婦狩りがおこなわれていたこともその表れです。
ところで本来、強姦を防ぐためには兵士の犯罪を厳しく取締まると同時に兵士の人権を保障し待遇を改善することが大切ですが、日本軍がおこなったことはそれに逆行したことでした。補給もなしに戦場やジャングルに送り込み多くの餓死者を出したり、捕虜になることを許さず無意味に「玉砕」させるなど兵士の人権を踏みにじったのでした。そうした発想しかない日本軍は女性の人権を踏みにじることを平然とおこなったのです。女性への性暴力、人権蹂躙という点では強姦も「慰安婦」にしたことも同じなのです。