4-3 警察は「慰安婦」を保護?

1938年2月23日の内務省警保局長通牒「支那渡航婦女の取扱に関する件」は、今後、「醜業」(売春)を目的とする女性の中国渡航(事実上「慰安婦」の中国渡航を意味する)については、満21歳以上で、かつ現に「醜業」に従事している者に限り黙認するという制限を課しています。また、女性たちに身分証明書を発行する時には「婦女売買又は略取誘拐等の事実なき様特に留意すること」と指示しています。内務省は、「慰安婦」を送り出す際に、婦人・児童の売買禁止に関する条約や刑法第226条に違反することがないように注意しているのです。犯罪防止に努めようとしているようにみえます。

しかし、この通牒は、日本内地でしか出されませんでした。なぜなら、日本は、婦人児童の売買禁止に関する国際条約に加入していたので、このような制限をしたのですが、この条約に加入する時に、植民地(朝鮮・台湾)には適用しないという条件を付けていたからです。このように、朝鮮・台湾では制限はしなかったのです。こうして、朝鮮・台湾からは、21歳未満の未成年者や、売春経験のない女性たちが数多く「慰安婦」として送り出されたのです。

山田清吉『武漢兵站』

漢口兵站司令部の副官で、軍慰安所係長であった山田清吉大尉(着任当時は少尉)は、日本内地からきた「慰安婦」は、だいたい娼妓・芸妓・女給などの前歴のある20歳から27歳の妓が多かったが、朝鮮から来た者は「〔売春の〕前歴もなく、年齢も十八、九の若い妓が多かった」と記しています(山田清吉『武漢兵站』図書出版社)。売春の前歴のない女性や21歳未満の女性という、日本内地からの渡航は禁止されている女性たちが、植民地からは数多く連れ出されている、ということがよく分ります。

なお、日本の外務省の資料によれば、1940年には、6名の台湾人女性が中国広東省に「慰安婦」として送られていますが、その年齢は、18歳(1名)・16歳(2名)・15歳(1名)・14歳(2名)でした。

こうして、この通牒は、すくなくとも朝鮮・台湾では「よい関与」を示すものではない、ということになります。逆に、派遣軍が作り始めた「慰安婦」制度を日本政府が黙認したものであって、女性たちに対する人権侵害に関して、日本軍とともに日本政府に責任があることを示すものというべきでしょう。

内務省警保局長の通牒では、女性たちの募集・周旋の際、軍の諒解とか軍との連絡があるという者は厳重に取り締まると言っていることも重要です。日本政府は、軍が集めさせているということ自体を隠そうとしているのです。

なお、この通牒が出されたにもかかわらず、それが厳密には遵守されなかったということ指摘しておきたいと思います。中国の山海関領事館の佐々木高義副領事は、1938年5月に売春を目的とする芸妓3名が警察発行の身分証明書を持っているのでやむなく通過を認めたが、全員通牒が禁止している21歳未満だった、このようなケースは他にも二、三あった、と報告しています(佐々木副領事「支那渡航婦女の取扱に関する件」1938年5月12日)。また、長沢健一軍医が検診したある女性は、日本内地からきた、売春経験のない女性でしたが、そのまま「慰安婦」にされています(長沢『漢口慰安所』図書出版社)。秦郁彦氏が「信頼性が高いと判断して選んだ」証言によると、1941年に「部隊の炊事手伝いなどをして帰る」といわれて大陸慰問団として済南に来た日本人女性約200名が「皇軍相手の売春婦」にさせられた、といいます(秦『慰安婦と戦場の性』新潮社)。

通牒が出されたにもかかわらず、日本人女性でもこのような目にあっているのです。通牒が出されなかった朝鮮・台湾の女性がどのような目にあったか、自ずから明らかではないでしょうか。

資料1 内務省警保局長通牒「支那渡航婦女の取扱に関する件」1938年2月23日


資料 台湾・高雄州知事「渡支事由証明書等の取寄不能と認めらるゝ対岸地域への渡航者の取扱に関する件」1940年8月23日、外務省外交史料館所蔵、吉見義明編『従軍慰安婦資料集』(大月書店より)。

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