韓国で日本軍「慰安婦」被害者たちが名乗り出た経緯は、日本軍「慰安婦」問題の解決のための運動から始まります。運動を開始したのは、韓国の女性団体でした。
1970年代女性運動にルーツをもつ韓国挺身隊問題対策協議会
韓国の進歩的な女性運動団体は、1970年代から女性労働者の生存権闘争を支援する人権運動、民族統一と民主化運動、平和運動に積極的に参加してきました。 1980年代末からは、買売春問題と日本の経済力を前面に出したキーセン観光への反対活動を展開しながら、その過程で、現在の問題の根本に日本軍「慰安婦」問題があることを確認し、女性運動の課題とすることにしました。
日本政府が日本軍「慰安婦」問題への関与を否定するや、これに対する組織的な解決策が求められました。そのため、1990年11月16日に韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺隊協)を発足させることになりました。
挺対協の結成には、韓国女性団体連合、韓国教会女性連合会、韓国女性ホットライン連合、韓国女性民友会、全国女子大生代表者協議会、カトリック女性団体、韓国仏教の女性連合会など、国内の代表的な37女性団体が参加しました。
とくに、挺対協結成と日本軍「慰安婦」問題解決運動を産み出す役割を果たした代表的な団体は、韓国教会女性連合会でした。韓国教会女性連合会は、外貨獲得を名目にしたキーセン観光奨励政策に抗議する反対活動を展開しており、この過程でキーセン観光の実態調査をすることになりました。その結果、観光客の70%以上が日本人(男性)ということが確認されたために、これは経済侵略による現代版日本軍「慰安婦」という意識を持ち始めました。
尹貞玉さんの問題提起
さらに日本軍「慰安婦」問題を浮上させたのは、韓国教会女性連合会が1987年4月に、1988年ソウルオリンピックを控えて済州島で開催した国際キーセン観光セミナーでした。このセミナーには、挺対協結成と運動に重要な役割を果たした梨花女子大学英文学科尹貞玉教授(のちの挺対協初代共同代表)が講師として招かれ、初めて日本軍「慰安婦」問題を公式に提起することになりました。
尹貞玉教授は、多くの朝鮮人女性たちが日本軍「慰安婦」として強制動員された時代と同じ世代として、被害者の実情についての調査を誠実に行ってきました。 1980年から、沖縄をはじめ海外の日本軍慰安所があった現場を一人で踏査し、現地住民の証言を調査してきたのですが、その調査報告をこの日のセミナーで発表したのです。
このセミナーに参加した日本の女性たちは、尹貞玉教授の講演を聞いて大きな衝撃を受けました。それ以来、日本の女性の間で日本軍「慰安婦」問題解決運動に連帯する集まりが生まれ始めるきっかけとなりました。
運動のきっかけは盧泰愚大統領の訪日と日本政府の回答
このように女性運動の部分的な運動が本格的な連帯活動になり、「挺身隊」(訳注:本来は女子勤労挺身隊を意味するが、当時は「慰安婦」を意味していた。以下同じ)の真相究明と謝罪・賠償要求に対する公式立場を初めて発表したきっかけは、1990年5月22日、盧泰愚大統領の訪日でした。韓国教会女性連合会と韓国女性団体連合、全国女子大生代表者協議会は、共同記者会見で、「挺身隊」問題の解決に韓国政府が積極的な役割を果たすことと、盧泰愚大統領が日本政府に公式謝罪と真相究明、法的賠償などを要求することを促しました。
このような韓国女性運動の日本軍「慰安婦」問題提起に基づいて、日本では1990年6月6日、本岡昭次(当時の社会党参議院議員)が国会で日本軍「慰安婦」に対する日本政府の責任を質疑しました。日本の国会での最初の問題提起でした。このとき、回答した日本の労働省職業安定局長は、「慰安婦」に関しては「民間業者がしたのであり、これの実態については調査できない」と拒絶しました。この事件が韓国女性団体の怒りを呼び、日本大使館への抗議訪問と、海部首相(当時)宛に公開書簡を送るなどの公開活動を本格的に開始しました。
被害者のカミングアウト、精神的・肉体的後遺症
こうして始まった対日本政府の活動のなかで、組織的な対応の必要性を痛感し、 1990年11月16日に、先に述べた挺対協を発足させることになったのです。
被害者たちの公開証言開始:挺対協の発足に続き、日本軍「慰安婦」問題が韓国世論の勢いに乗るきっかけとなったのは、被害者の勇気ある証言でした。日本政府が日本軍「慰安婦」制度に関与した事実を否定するだけでなく、関連資料と証拠を焼却・破棄隠蔽している状況で、韓国内での真相調査は生存者の名乗り出と証言を待ち望まざるを得ませんでした。
1991年7月に被害者申告電話を開設し、国内の生存者および犠牲者の家族からの申告電話の受けつけを開始しました。姉妹が、あるいは娘が「挺身隊」に連行されていったと申告する遺族からの電話も相次ぎ、当時の村長が「挺身隊に行け」と宣伝したという情報提供の電話もありました。
1991年8月14日、ついに韓国初のサバイバーである金学順ハルモニ(訳注:おばあさんの意)が、記者会見で本人が日本軍「慰安婦」の生存者であることを明らかにしました。このことが新聞やテレビを通じて全国に広まり、大邱に住む文玉珠ハルモニの証言や、その他の生存者たちの申告が相次ぐきっかけとなりました。
同時に、翌1992年1月に日本の吉見義明教授が、日本軍が「慰安婦」制度に直接関与したという文書を見つけたことで、日本軍「慰安婦」問題はますます韓国社会の世論を熱くしたし、連日、新聞やテレビには「慰安婦」関連の新たなニュースが報道されるようになりました。
世論に押されて韓国政府も、1992年から各自治体を通じて申告センターを設置して申告を受け始め、2013年12月現在までに、韓国政府に登録された日本軍「慰安婦」被害者は237人で確認されました。現在56人が生存しています(2013年12月現在)。
精神的・心理的状態:日本軍「慰安婦」被害者の申告電話で現われ始めた日本軍「慰安婦」たちの解放後(訳注:1945年8月15日の日本敗戦により朝鮮は植民地から解放された、の意)の人生は、「慰安婦」の後遺症との闘い、経済的貧困との闘いの連続でした。とくに被害者のほとんどが、対人恐怖症、精神不安、癇癪、羞恥心、罪悪感、怒り、恨み、自己卑下、諦め、うつ病、孤独など、精神的、心理的に「慰安婦」の後遺症を抱えていました。男性恐怖症を見せる生存者も多かったのです。
「男ならぞっとする。だから結婚は考えもしたくなかった。しきりに昔の私に襲いかかってきた、その日本の軍人たちを思い出すから」
「私があんなところに行って来たことが誰かに気づかれるのではないかと思って怖くて…」
ある生存者は、寝ているときも日本の軍人たちが襲いかかってくるのを拒否する夢を見ながら全身をもがいたり、睡眠中にいきなりむっくり立ち上がってベッドの上に座って何か聞き取れない言葉でぶつぶつつぶやくと思うと、今度は部屋から出ては戻ってきて再び眠ったりすることを繰り返しています。ところが、本人はこのようなことが夜中に起きていることさえ知らないのです。
肉体的苦痛:生存者は「慰安婦」を経験した後、肉体的な病気と闘わねばなりません。殴打などに起因する外傷や不妊、性病、子宮異常、心臓器官の異常、消化器官の異常、肺疾患など慰安婦の直接の後遺症と、「慰安婦」経験のために後天的に生じた病気などをすべて抱えています。生存者たちは、ちゃんとした仕事に就くことができず、掃除や洗濯、子守り、家政婦、食堂の仕事など日雇いに従事しながら得る収入は、ほとんど医療費に充てなければならなかったと伝えられています。
それだけでなく、幼い年齢(訳注:未成年の被害者が多かった)で多くの日本軍人たちに繰り返し長期間にわたって性暴力を受け続けたので、背骨や腰が正常でない方、身体の成長期に長時間足をしめることができない状態で固定されたため、足を開いたままの姿勢を強いられたがゆえに、足が閉じられない形に固定してしまったことによる数々の痛み、そのため生存者たちは鎮痛剤を常時服用しているのです。