- 1934年、中央ジャワ、プルウォダディ郡で生まれる。
- 連行年(年齢):インドネシア プルウォダディ郡の日本軍兵舎
- 連行先:プルウォダディ郡の日本軍兵舎内にある「パパック館」”Gedung Papak”
● 証言概要
■9歳で日本軍の将校に連れ去られました
私は郡長の末娘で、姉妹たちの中で最も美しいと言われていました。周辺の村々の若者たちの間でもよく知られていたようです。
日本の軍政の下で、経済的にも社会的にも苦しい日々をおくっていた1943年のある日、日本軍の将校が2人の副官と村長を伴って、グンディ村の国民学校(SR)で学んでいた私の家にやってきました。その時私はまだ9歳でした。
将校の名前はオガワといいました。2人の副官はいきなり威圧的な言葉と態度で両親に私を差し出すように命令したのです。拒否する父の胸には銃剣が突きつけられ、母はただ泣くことしかできませんでした。兵隊たちは力ずくで私を両親の腕からもぎ取るように拉致したのです。
■オガワの「所有物」として性暴力を受けました
こうして、私は自宅からそれほど離れていない同じプルウォダディ郡にある日本軍の兵舎に連れていかれました。私が監禁されたのは、日本軍の駐屯施設の中にある「パパック館」と地元の人たちが呼ぶ建物でした。この建物はいまもそのまま残されています。
この建物の二階はオガワの「将校住宅」で、一階は部隊の事務室として使われていました。オガワに命令する上官はひとりもいませんでしたから、彼はこの部隊の一番偉い人だったのかもしれません。この建物の二階の「将校マンション」で、私はオガワの「所有物」とされました。
他の兵舎には、下士官たちのために数名の若いジャワ人女性が私と同じように監禁されていました。
私は二階に閉じ込められ、一日に数分間だけバルコニーに出ることが許されました。オガワが私に行ったことは性行為ではなく、性暴力でした。子宮に深い傷を被って出血が止まらなかったこともあります。
■「日本軍に遊ばれた女」と誹謗され・・・
1945年のはじめ、私はようやくオガワの性暴力から「解放」され、グンディ村の自宅に帰されました。あまりに変わり果てた私の姿に両親は大きな衝撃を受け、直ちに入院治療を受けさせました。1カ月の入院で、傷ついた身体はある程度回復しましたが、心の深くに被った傷は癒えることはなく、その後も私を苦しめ続けたのです。
日本の敗戦によって日本兵は去りましたが、外出すると必ず村の若者たちから「日本兵に遊ばれた女」と誹謗されるようになったのです。
■苦しい戦後
私は二度結婚しましたが、子宮を損傷したため、妊娠することはできませんでした。いまの生活はとても恵まれているとは言えません。夫は以前、建築現場で作業中に事故にあい障害者になってしまいました。そのため私が夫の分まで働かなくてはならず、マッサージと死体を洗浄する仕事で日々の生計を立てています