6-3 戦前の朝鮮は日本の一地方に過ぎなかった?

 大日本帝国支配下の朝鮮の行政上の位置づけは、現在の都道府県制度はもちろん、戦前の府県制と同レベルと思ったら大まちがいです。同じ帝国の領内でありながら、「外地」と呼ばれた植民地は、府県などの地方行政とは、支配の実態はもちろん、法制度的にも性格を大きく異にしていました。

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植民地とは何か

 植民地という歴史用語は、政治・経済をめぐる覇権抗争が激化する帝国主義時代以降、主に軍事力を背景として他民族が居住する地域を政治的、経済的、文化的に支配する統治形態を指す概念として使用されるようになりました。一方、近代法制度の観点からは、国家の領域の一部でありながら、その国の憲法における例外的な法形式によって統治が行なわれる範囲(これを異法域といいます)を植民地と位置づけています。

 敗戦によって植民地を放棄するまで、日本には一般的には「外地」と呼ばれた公式の植民地が複数存在しました。編入順にあげると台湾、関東州、樺太、朝鮮、南洋諸島の五つです。その統治形態は、地域や時期によって直轄植民地、租借地、委任統治領とさまざまですが、法制度上共通しているのは、これらの地域には帝国憲法で規定された臣民の権利・義務を定めた法律が当然には(特別な手続きなく)施行されなかった点です。ではこれらの地域でどのような法制度が適用されていたのか、植民地朝鮮を例に確認してみましょう。

植民地朝鮮と、強大な権限をもつ朝鮮総督

 統治機関である朝鮮総督府の長官である朝鮮総督は、天皇が任命し、陸海軍大将しか就くことができないとされていました1。また、総督は、天皇に(直属すること)し、委任の範囲で陸海軍を統率できるとともに、政務に関しては内閣総理大臣経由で上奏し、天皇の裁可を受けるとされました。朝鮮総督は、立法権や行政権、司法権、さらには軍隊統率権2にいたるまで、実に強大な権限をもっていました3。朝鮮においては、本国で曲がりなりにも行なわれていた三権分立が制度的に保障されていなかったのです。

 このうち、法制度的に特に問題となるのは立法権のあり方です。「韓国併合」時の日本政府の公式的見解では、大日本帝国憲法が朝鮮に施行されるとされていましたが、行政官である朝鮮総督に立法権が委任されました。

 植民地朝鮮において、帝国憲法の下で法律によって規定される帝国臣民の権利・義務は、①天皇の命令である勅令によって朝鮮に適用された法律(著作権法や特許法、治安維持法など)、②朝鮮に施行することを目的として制定された法律(東洋拓殖会社法、朝鮮事業公債特別会計法など)、③制令とよばれる朝鮮総督の命令によって規定されました。本来、法律によらなければならない内容であっても、②以外は行政部による命令によって行なわれていたのです。

日本人と朝鮮人で違う適用法規

 もう一つ、法制度からみて問題なのは、日本人(「内地人」)と植民地民(「朝鮮人」「台湾人」など)で適用される法規が必ずしも一致しなかったという点です。大日本帝国領域内での法適用は、属地主義(居住地別の法適用)と属人主義(民族別の法適用)が併用されており、法域4と民族という二つの基準からなる法制度がそれぞれ存在していました。たとえば、衆議院議員選挙法(1925年)は居住地に従って適用されました。日本列島内(内地)に住む朝鮮人男性にも参政権が付与される一方、朝鮮に住む日本人男性は国政選挙に参加できませんでした。これは法域間で法適用が異なる事例です。

 一方、同じ法域内において、適用される法規が民族によって異なる場合も数多く見られました。たとえば、帝国憲法下の徴兵制度5では「戸籍法」適用者がその対象であったため、朝鮮人男性は徴兵されませんでした。朝鮮人は「戸籍法」ではなく「朝鮮戸籍令」(1923年制定)の下に編成されていたからです。朝鮮人の徴兵は、日中戦争以後の戦況悪化に伴って兵力が不足するなかで、1943年に「兵役法」が改正され実施されましたが、それは、「戸籍法」(対日本人)および「朝鮮戸籍令」の適用を受ける者に徴集範囲を拡大するという措置によるものでした6

国際条約の植民地への適用と保留

 大日本帝国が諸外国と結んだ条約はどのように国内に適用されたのでしょうか。そしてその条約と植民地とはどのような関係にあったのでしょうか。

 国際法が国内裁判で直接適用されるかどうかは一律に決まっているわけではなく、国によって異なります7。戦前の日本では、学説は分かれていますが、条約締結を天皇大権としていたため(明治憲法一三条)、条約が直接的に国内法の効果を有するとするのが一般的でした。

 国内法において植民地は本国と法域を異にしますが、国際法上は同一領土とみなされます。したがって条約締結にあたり、留保という手続をとって植民地への条約の適用除外を宣言しない限り、本国と植民地には等しく条約内容が適用されました。これを逆に言うと、留保によって条約の内容の一部を制限したり、施行する地域を限定したりすることができたということです。たとえば、女性・児童の売買を禁止する「醜業を行わしむる為の婦女売買取締りに関する国際条約」(1910年)や「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」(1921年)では、日本国内で娼妓取締規則において満18歳以上の女性に売春を認めていたために適用年齢(21歳未満禁止)について「日本国政府宣言」で留保しました。それとともに、朝鮮、台湾、関東州、樺太、南洋諸島の「特殊地域」(1921年条約14条)は、内地延長主義的立場から将来の撤廃は視野に入れるものの、「内地ト事情ヲ異ニスル」との理由(枢密院審査報告 大正14年)から、同条約の適用が除外されました。その後、年齢規定に関しては1927年に留保条件が撤廃されましたが、植民地への適用除外規定についてはそのまま維持されました5-7参照)

 以上見てきたように、帝国内の法制度においても条約の適用においても、日本人と朝鮮人が同じ法制度のもとで暮らしていたとはとても言えない状況がありました。

  1. 1919年の官制改革により、文官も任用可能となったが、朝鮮では文官が総督に就任した例はない。
  2. 1883年、日本公使館守備隊として朝鮮に配属された日本軍は、日露戦争時に韓国軍となり、「韓国併合」後、朝鮮駐箚軍、さらに朝鮮軍と改称された。その後、いわゆる二個師団増設問題を経て1921年までに朝鮮に二個師団の常駐体制が整備された。
  3. 朝鮮総督のもっていた権限は他の植民地統治機関に比べても抜きん出ている。たとえば台湾総督は、内務省や拓務省など(時期によって異なる)の監督下に置かれた。
  4. 特定の法律が施行されている領域を法域という。現在の日本では、国家の領域と法域とは一致しているが、たとえば米国では、特に私法の分野において各州が独立した立法権をもつため、一つの国家領域において複数の法域が存在することになる。
  5. 1889年の「徴兵令」(なお、最初の「徴兵令」は73年公布)および1927年の「兵役法」にもとづく規定。
  6. 戸籍制度を利用した法的区分は、戦後、恩給制度などの運用においても、旧植民地出身者への適用除外に利用された。
  7. 現在でも、イギリスやカナダなどは、個々の条約を個別に国内法に変更する手続きを経なければ国内的な効力が発生しないとする体制をとっている。一方、米国やフランスなどは、条約を一般的に国内法体系に取り入れる憲法体制をとっている。戦後日本は憲法98条2項により後者と解される。
<参考文献>

中村哲『植民地統治法の基本問題』日本評論社、1943年
外務省条約局法規課『日本統治時代の朝鮮』1971年
百瀬孝『事典 昭和戦前期の日本』吉川弘文館、1990年

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