日本軍将兵の戦記
平原一男『山砲の正江作戦』一九九一年、私家版、三八四~一一一八五頁、
聯隊段列長が両市塘に着任したとき、治安維持会長余光南氏が、前の警備隊長の治安維持会に要求した事項の筆頭に姑娘があったように、小さな警備隊では自らの力で慰安所を経営する能力がないので、中国側の協力に期待することになっており、ある場合には強制という形になっていたのかもしれない。
(中略)
第一大隊本部は讃家瀧に集結したが、集結して間もなく第一大隊の慰安所を開設したいという意見が出て来た。芷江作戦の死闘を潜り抜けて生きている悦びを噛みしめており、前途には洪橋の陣地を墓場とする激戦が迫っているという感じがあり、今日一曰を精一杯生きてほしいという気持ちが強く、慰安所の開設の意見具申を肯定的に受け入れた。
慰安所の開設に当たって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の俸給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。そこで大隊本部の経理室で慰安婦たちが稼いだ軍票に相当する生活物資を彼女たちに与えるという制度にした。経理室が彼女たちに与える生活物資の主力は、現地で徴発した食糧・布類であったと記憶している。兵の中には徴発に出かけた際、個人的に中国の金品や紙幣を略奪し、自分が遊んだ慰安婦に与える可能性もあると思われたので、経理室の供給する物資は思い切って潤沢にするよう指示した。