5-7 朝鮮人「慰安婦」に少女は少なかった?

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「慰安婦」にされた少女は少数例外?

 朴裕河著『帝国の慰安婦』は、韓国の〈慰安婦=少女〉イメージは「挺身隊を慰安婦そのものと誤解したことから作られたもの」(64頁)5-2参照)と述べ、被害女性の証言から「20歳以上」だった、ビルマのミッチーナーで米国政府戦争情報局の尋問をうけた朝鮮人「慰安婦」たちの「平均年齢は25歳」の記述などを根拠に、朝鮮人「慰安婦」の多くは「少女ではなかった」と主張します。にもかかわらず、韓国で「慰安婦」イメージが「少女」に定着したのは、「韓国の被害意識を育て維持するのに効果的だったための、無意識の産物だった」(65頁)と述べ、次のように述べています。

資料や証言で見る限り、少女の数はむしろ少数で例外的だったように見える。……軍の意思よりは業者の意志の結果だった」(106頁、傍線引用者)

 朴氏は、朝鮮人で「慰安婦」にされた少女は「少数で例外的」、しかも「軍の意思より業者の意思」だったと強調していますが、本当に「資料や証言を見」たのでしょうか?  軍より業者の意思というのは事実でしょうか?

朝鮮人「慰安婦」の大半は連行時に未成年の少女

 まず、被害女性の証言からみましょう。名乗り出た朝鮮人元「慰安婦」の過半数が「慰安婦」にされた当時10代の少女だったことは、被害女性の証言が示すところです1。具体的には、朴永心17歳、宋神道17歳、金学順17歳、李桂月15歳、郭金女17歳、孫パニム19歳、朴頭理17歳、朴玉仙17歳、李玉善15歳、文必琪18歳、姜徳景16歳と未成年、つまり、少女でした(黄錦周は20歳ですが、満19歳)。金英淑のように13歳の場合もありました(彼女は肉体的に成長していないため軍人によって軍刀で性器を切り開かれました)。当時の食糧事情の悪さから、10代後半でも初潮前が多かったのです。彼女たちは少数例外ではなく、未成年が多いのは、朝鮮人「慰安婦」の特徴の1つです2

 注意すべきは、朴氏が、同じ被害女性の証言集を使いながら、被害女性の全体像が「10代の少女」だったという実態を無視して、「20歳以上」という彼女の持論にあう証言を選ぶという恣意的で暴力的な情報操作をしていることです。また、朴氏のいう、ビルマのミッチナの朝鮮人「慰安婦」たちが「平均年齢は25歳」というのは、【表1】が示すとおり、実際は「平均23歳」で、しかも捕虜になったときの年齢です。重要なことは、その2年前に徴集されたときには「平均21歳」で、過半数が10代だった事実(20人中12人3) です。

 次に、戦時中、中国最大規模の慰安所があった漢口慰安所の兵站慰安係であった山田清吉氏は、朝鮮人「慰安婦」について「半島から来たものは〔売春の〕前歴もなく、年齢も18、19の若い妓が多かった4」 と記しています。

ターゲットにされた「年若き」植民地の少女たち  

 民族別に「慰安婦」をみると、朝鮮人の比率が高く、さらに未成年が多かったのですが、その理由を吉見義明氏の研究などによってみましょう5

 第一に、日本政府が、売春女性ではない日本人女性が「慰安婦」として戦地に送られれば、「銃後の国民、特に出征兵士遺家族に好ましからざる影響を与うる6」 と判断したことがあげられます。そのため日本からの徴集は、

「内地に於て娼妓其の他、事実上醜業(=売春をさす)を営み、満二一歳以上、且花柳病(=性病をさす)其の他、伝染性疾患なき者7

  つまり、日本人女性の徴集は「満21歳以上で、性病のない、売春女性」に限るとしました。しかしこの3つの条件を満たす日本人女性を探すのは、簡単ではありませんでした。そうなると、日本国内から大量に徴集できなくなり、植民地の女性がターゲットにされました。これは「あきらかな民族差別」(吉見氏)です。

 第二は、植民地からの徴集が国際法の抜け道とされたことです。当時、「婦女売買に関する国際条約」は4つあり、日本は1904年、1910年、1921年の3つの条約に加入していました(1933年は批准せず)。1910年の条約では、本人の承諾があっても未成年女性に売春させることを禁じ(第1条)、成人女性も売春目的で詐欺や強制的手段があれば刑事罰に問われる(第2条)というもので、宗主国である日本人女性には適用されました。未成年とは「20歳未満」(1910年条約)、「21歳未満」(1921年条約)を指したため、日本政府は日本からの「慰安婦」徴集を先述のように「満21歳以上、売春女性」に限るとしました。

 しかし日本政府は、国際法「婦女売買に関する国際条約」の適用から、植民地の朝鮮・台湾を除外しました6-3参照)。日本軍はこうした国際法の抜け道を利用して、日本では国際法の縛りがあるため徴集できなかった「未成年で、性病のない、非売春女性」を、植民地である朝鮮や台湾から大量に徴集して「慰安婦」にしようとしたのです8

日本軍将兵の性病対策という理由

 では、なぜ日本政府はわざわざ「性病がない」女性としたのでしょうか。それには以下の理由が関係します。つまり第三に、日本軍将兵の性病対策のため、植民地の性経験のない未婚の少女が狙われたためです。実際に、1938年初めに上海で「慰安婦」の性病検診をした麻生徹男軍医が書いた意見書「花柳病ノ積極的予防法9」によれば、朝鮮人「慰安婦」は「花柳病ノ疑ヒアル者ハ極メテ少数」「若年齢且ツ初心ナルモノ多キ」と記しています。

 つまり、「慰安婦」は「年若キヲ必要トス」(麻生軍医)とされたのは、日本軍将兵への性病対策という政策的な裏づけがあったためであり、「業者の意思」(朴裕河氏)などではなく、日本軍自らが「性病のない、年若き慰安婦」を必要としたことになります。

 もちろん朝鮮人「慰安婦」には、連行時に成人だったり【表1】、公娼出身女性もいたので、多様性がありました。公娼出身女性は公娼制度下で性奴隷とされ、日本軍「慰安婦」制度下に組み込まれて性奴隷にされたので、二重の性的被害者です10。しかし、証言や資料から朝鮮人「慰安婦」の全体像をみると、国際法の植民地適用除外や日本軍将兵の性病対策という側面から、とりわけ性経験のない未婚の少女たちがターゲットにされたと言えるでしょう。

 その最大の理由は、当時の朝鮮が日本の植民地支配下に置かれていたからです。日本人女性の徴集は差し障りがあるが、植民地朝鮮の女性なら未成年を含めてどれほど大量に「慰安婦」にしてもかまわない、という民族差別意識が日本軍・国家の発想の基盤になったのではないでしょうか。

(金富子)

【表1】ビルマ・ミッチナの朝鮮人「慰安婦」の年齢(捕虜時と徴集時)   黒塗り部分にも数字あります。本書確認のこと

名前(イニシャル)

朝鮮での出身地

A=捕虜時の年齢
(1944年8月)

B=徴集時の年齢
(1942年8月)

S

慶尚南道晋州

21歳

19歳

K

慶尚南道三千浦

28歳

26歳

P

慶尚南道晋州

26歳

24歳

C

慶尚北道大邱

21歳

19歳

C

慶尚南道晋州

27歳

25歳

K

慶尚北道大邱

25歳

23歳

K

慶尚北道大邱

19歳

17歳

K

慶尚南道釜山

25歳

23歳

K

慶尚南道クンボク

21歳

19歳

10

K

慶尚北道大邱

22歳

20歳

11

K

慶尚南道晋州

26歳

24歳

12

P

慶尚南道晋州

27歳

25歳

13

C

慶尚慶山郡

21歳

19歳

14

K

慶尚南道咸陽

21歳

19歳

15

Y

平安南道平壌

31歳

29歳

16

O

平安南道平壌

20歳

18歳

17

K

京畿道京城

20歳

18歳

18

H

京畿道京城

21歳

19歳

19

O

慶尚北道大邱

20歳

18歳

20

K

全羅南道光州

21歳

19歳

平均年齢

23.15歳

21.15歳

出典:アメリカ戦時情報局心理作戦班「日本人捕虜尋問報告」第49号(1944年10月1日)吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、451~452頁、より作成。

(注)1)ビルマ・ミッチナ陥落後、1944年8月10日に朝鮮人「慰安婦」20人(日本人民間人2人)が米軍の捕虜になり尋問が行なわれた(A)。尋問によれば、1942年5月初旬に朝鮮に来た日本人周旋業者の「偽りの説明を信じて」朝鮮人女性800人が徴集され、1942年8月20日集団単位で「慰安所の楼主」に連れられラングーンに上陸、ビルマの諸地方に配属された(B)。よってBはAより2歳引いた年齢である。

2)網掛け部分は徴集時に10代だったことを示す。「20歳」は国際法上「未成年」になる(5-7 参照)。

  1. Fight for JusticeHP「証言―連行一覧」参照。
  2. 金富子「朝鮮植民地支配と『慰安婦』戦時動員の構図」アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)編、西野瑠美子・金富子責任編集『証言 未来への記憶―南北在日コリア編 上』明石書店、2006年、および同書『下』2010年、参照。
  3. 山田清吉(元兵站副官)『武漢兵站―支那派遣軍慰安係長の手記』図書出版社、1978年、86頁。
  4. アメリカ戦時情報局心理作戦班「日本人捕虜尋問報告」第49号(1944年10月1日)。吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、451~452頁。
  5. 吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995年、160~174頁。
  6. 内務省警保局長通牒「支那渡航婦女の取扱に関する件」(1938年2月23日)
  7. 内務省警保局長通牒、同前文。
  8. ただし、女性の送り出しに、日本の領土とみなされる日本の船舶を使ったり、日本軍中央が移送を指示すれば適用除外にはならないというのが最近の考え方である。
  9. 1939年6月26日付。麻生徹男『上海から上海へ 兵站病院の産婦人科医』(石風社、1993年)所収。
  10. なお、公娼出身の日本人「慰安婦」の被害と特徴は、西野瑠美子「日本人「慰安婦」の処遇と特徴」VAWW RAC編『日本人「慰安婦」』(現代書館、2015年)参照。
<参考文献>

岡本有佳・金富子責任編集『増補改訂版〈平和の少女像〉はなぜ座り続けるのか』世織書房、2016年

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