4-1 文書がないから事実(被害)を証明できないの?

「文書がないから事実を証明できない」という、日本軍「慰安婦」制度の被害を否定する主張に対しては、さまざまな観点から反論することができます。とくにここでは、事実を証明する証拠は文書だけではない、文書に残らない、記録になじまない分野があり、それらの事実は証言によってこそ明らかにされる(オーラルヒストリーの重要性)という観点を中心にして述べたいと思います。

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この観点からみる慰安所の実態 

日本軍「慰安婦」問題において軍慰安所での強制的実態こそ、強制連行の有無より本質的であることは言うまでもありません。第二次調査公表時(1993年)の発表文では、「常時軍の管理下において軍と共に行動させられており、自由もない痛ましい生活を強いられていた」、同時発表の「河野談話」では「強制的な状況の下での痛ましいものであった。」と記された慰安所の実態は、どのようなものだったでしょうか。

慰安所の実態は、「慰安所規定」という軍の文書からも、外出・散歩の自由がなかった(例:マンダレー慰安所規定ほか)などが明らかになりますが、慰安所での日常生活、個人的体験、精神的ストレスなどについては、まさに文書には残らない分野であり、証言によってしか明らかにされ得ない事実です。提訴された10件の日本軍「慰安婦」裁判のうち、フィリピンと台湾を除く8件の裁判の判決では、被害者の証言(陳述や供述)が吟味・判断されて、35人の被害が一人ひとり具体的に「事実」として認定されています。

判決では、慰安所の実態はどのように認定されたのか 

ここでは二つの例を紹介します。(1)は比較的に都市にあり、軍司令部・師団などが設置・管理し、多くは業者に運営させる整備された慰安所で、日本人女性や植民地の女性が多く連行された軍慰安所の例、(2)は軍慰安所のない前線に配置された部隊が、付近の女性を暴力的に駐屯地等に拉致・監禁し、自力で設置した慰安所もどきのもので、中国・フィリピンなど占領地の女性が被害に遭った例です。以下、〔 〕内は要約です。

(1)宋神道さん 在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求裁判 東京地裁判決(1999年)

宋神道

「〔1938年、数えの17歳の時、「戦地で働けば金がもうかる」と騙され、中国の武昌の陸軍慰安所に連行される。〕泣いて抗ったが〔無駄で、逃亡の度に〕殴る蹴るなどの制裁を加えられたため、否応なく軍人の相手を続けざるを得なかった。軍人が慰安所に来る時間帯は、兵士が朝から夕方まで、下士官が夕方から午後9時まで、将校がそれ以後と決められており……連日のように朝から晩まで軍人の相手をさせられた。〔日曜日や通過部隊がある時は〕数十人に達することもあった。軍人の中には、些細なことで激昂して原告に軍刀を突きつけたり、殴る蹴るの暴行を加えるものもあった。〔その刀傷痕、呼び名の金子の刺青痕、帳場や軍人による繰り返しの殴打によって右耳が聞こえないなどの後遺症がある。〕軍人は避妊具の使用を義務付けられていたが、使用しない者もあったため、性病にかかり、妊娠する慰安婦もいた。〔宋さんも何度も妊娠し、生まれた子は養子に出した。その後、漢口、岳州、長安などの〕各慰安所に移され、敗戦まで醜業に就くことを余儀なくされた。」 (注:被害期間は7年)

(2)郭喜翠さん 中国人「慰安婦」損害賠償請求事件(二次)東京地裁判決(2002年)

「〔1942年7月、八路軍の協力者であった義兄の家が襲われ、同居の郭さんも日本軍の拠点に暴力的に連行され、隊長に二度強かんされた。15歳で初潮もまだだった〕郭は陰部から出血し、その夜は痛みと恐怖心から眠ることができなかった。……郭は、引き続き監禁され、日中は複数の日本兵又は清郷隊員(日本に協力した武装組織)に輪姦され、その際、日本兵によって陰部を切断されたこともあり、夜から未明にかけては隊長や清郷隊の幹部らに強姦された。郭は、度重なる強姦と監禁により衰弱し、……何の治療も受けなかったために切断された部位が化膿し、発熱したり浮腫が全身に広がるなどした。〔半月後〕郭は動くこともできないほど衰弱し、家族が清郷隊に銀五〇元を支払って……解放された。……一週間も経たないうちに、……隊長が郭の所在を確認するため姉の家に来た。……同じ場所に再び監禁され、隊長ら日本兵に強姦された。その後、郭は、健康状態の悪化により解放された。その後、郭は三たび……連行され、……監禁、強姦、輪姦の被害に遭った。郭は、同年九月中旬頃解放され〔今度は別の村に隠れ、被害を免れた〕現在、……重度のPTSDの症状が認められる。」(注:被害期間は3カ月)

なお、中国人裁判(一次)の東京高裁判決も、「駐屯地近くに住む中国人女性(少女も含む)を強制的に拉致・連行して、監禁状態にして連日強姦を繰り返す行為、いわゆる慰安婦状態にする事件があった」と、総括的に記述したうえ、各人の被害を認定しています。

事実認定による軍慰安所の実態

以上、事実認定によって明らかにされた軍慰安所の実態をまとめると、

まず、①拒否できない性行為の強制。宋さんは上記のほか、「明日、明後日産むくらいの体でも、軍人の相手しなきゃ殴られる」と証言。「抵抗すると殴る・蹴る、タバコの火を押し付ける(顔にも)……など暴力を振るわれ」た海南島の林亜金さんなどほとんどです。こうして暴力によって性行為が強制されていて、朝から晩まで一日十数人~30、40人。日曜日や通過部隊がある時は数十人。50人という例(盧清子さん)もあります。私たちもこれらを言葉や数字でなく、わが身に置きかえ痛さ・辛さ・恐怖として想像してみれば、被害者がよく言われる「人間ではなかった!」状態、まさに性奴隷だと実感されるのではないでしょうか。

次に、②廃業の自由についてですが、植民地の被害者の場合、ほとんどが日本の敗戦によって解放(廃業)されたと認定されています(七、八年の長期間の人も)。つまり、敗戦まで廃業の自由がなかった証拠です。文書上も、「慰安所規定」には廃業の規定は書かれていない(吉見義明さん)こと、「軍政監部」の慰安婦施設関係資料には「……稼業婦(注:慰安婦)にして廃業せんとするときは、地方長官に願い出てその許可を受けるべし」とあり、許可制で自由に廃業はできない(泥憲和さん)ことからも、この自由は問題外と言えます。実際、廃業するには逃亡しかなかったのですが、言葉も地理もわからない外国での逃亡は不可能であり、また、失敗した時の苛烈な制裁は廃業の意思すら奪いました。殴る、蹴る、樫の棍棒で頭や体を殴打するなどは普通で、海南島の陳金玉さん・黄玉鳳さんは、制裁として、「腹の下に刃を上に向けた軍刀の抜き身を置かれ、そのうえで腕立て伏せのような格好をさせられ、身体を上げて楽な姿勢をとると棒で腰を叩く」という残酷な暴力も振るわれています。占領地の被害者は、圧倒的な武装日本軍の直接的な暴力による監禁状態にあり、山西省での場合、郭さんのように解放というのは、ほとんどが衰弱して「慰安婦」の役に立たなくなって捨てられるように、それも日本軍などに数百銀元を渡すのと交換になされています。廃業という言葉自体ナンセンスでした。③居住の自由などがあるはずがないことは前述からも明らかです。④日常的に暴力と背中合わせの生活。抵抗すれば刀で斬られる、酒を飲んで暴れる兵、心中を迫る兵などによる大けが、今も後遺症に悩まされています。判決にはありませんが、殺された人もいます。⑤貧しい食事。⑥子宮病や妊娠・性病などの危険性。放置または不十分な治療。⑦敗戦後の置去り。これらを考えれば、慰安所の実態は重大な人権侵害であり、まさしく性奴隷と言えるもので、「河野談話」の表現を裏づけるものです。関釜裁判下関判決(1998年)では結論的に「政策的、制度的に軍人との性行為を強要したものであるから……極めて反人道的かつ醜悪な行為であったことは明白」「いわゆるナチスの蛮行にも準ずべき重大な人権侵害であって……損害を放置することは新たに人権侵害を引き起こすこと」であるとして唯一、勝訴判決をしています。この認識は国際社会の認識です。

判決は証言をどう判断したか

証言を認定する根拠は、ほかの証拠(背景事情・現場写真・文書資料・目撃者証言・研究者証言など)と照らし合わせて吟味するとともに、下関判決では、以下のように述べられています。

「〔不十分な教育からか断片的、視野の狭い証言ではあるが〕かえって、原告らは……屈辱の過去を長く隠し続け、本訴にいたって初めて明らかにした事実とその重みに鑑みれば、……むしろ、同原告らの打ち消し難い原体験に属するものとして、その信用性は高いと評価され」る。

もう一つ河野洋平元官房長官の言葉をあげましょう。

河野洋平

「もう明らかに厳しい目にあった人でなければできないような状況説明が次から次へと出てくる。その状況を考えれば、この話は信憑性がある、信頼するに十分足りるというふうに、いろんな角度から見てもそう言えるということがわかってきました」

以上、「文書がないから、その事実(被害)を証明できない。だから、そういう事実(被害)はない」という論理は成立せず、何よりも日本の司法が被害者の“証言”の信用性を評価して、被害事実を、軍慰安所での強制的実態を具体的に認定していることを多くの方々に知っていただきたいと思います。

(2014年10月24日更新)

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