【被害者証言】黄阿桃(台湾)

黄阿桃 イラスト_s

  • 1923年、桃園県観音郷に生れる。2011年逝去。 
  • 連行年(歳):1942年
  • 連行先:

●証言概要

■看護助手の募集に応募してインドネシアへ

私が生まれた家は貧しく、学校にももろくに通えず、家事の手伝いをしていました。やがて台北に出て、萬華の日本人写真館で住み込みの飯炊きの仕事をしていました。

戦争(アジア太平洋戦争)が始まって、南方で働く看護助手を募集しているという広告を見た友人に誘われて、私も応募しました。文字が読めなくても雑用の仕事があるということで、1942年の旧正月のころ、日本人の男女に引率されて23人の女の子たちと高雄から「浅間丸」でインドネシアに向かいました。船には大勢の軍人たち、そして日本人の女も乗っていました。

■バリックパパンの慰安所で兵士の相手を強制されました

セレベス島のマカッサルに着いて、しばらくそこの軍人宿泊所に滞在して、別の船でボルネオ島のバリックパパンに到着しました。着いてすぐから、連日激しい空襲があり、一緒に行った仲間の3人が亡くなりました。私は下腹部と目にひどいけがをして海軍病院で手術を受けましたが、子宮と右目を失ってしました。

退院すると、私は兵隊の相手をすることを強制されました。慰安所では、軍人は札を買って自分の買った女の子の部屋に入ります。砲弾の空き箱を並べて作ったベッドと椅子、テーブルだけの小さな部屋でした。最初に私の部屋に入ってきた兵士は、私が泣くのを見て何もしませんでしたが、その次に入ってきた兵士は酒に酔っていて、乱暴に私の身体に襲いかかってきました。血が流れ、痛みに驚いておかみさんに言いつけに行くと、「だれでも最初はそうなるので大丈夫だ」と言われました。

私ちは毎月1回、軍医の身体検査を受けました。性病にかかっているかどうかを調べるのです。やってくる兵士の数はそれぞれの女の子によって違い、きれいで歌のうまい子にはたくさん来るのです。おかみさんが私に、「もっと客をとるように。1日20人だ」と言うので、私が「それなら自分でやってみたら」と必死で言い返したところ、それ以上は言いませんでした。死にたいと思いましたが、いつか台湾に帰って両親に会いたいと我慢しました。

■1947年にようやく帰国できました

1945年8月日本が戦争に負けると、ウチたちは現地に取り残されてしまいましたが、台湾同郷会の人たちの世話で、1947年、2.28事件のときにようやく帰国できました。汽車は止まっていたので、牛車で故郷に帰りました。

バリックパパンでのことは他人に話すこともできず、ずっと独り身で働き続けましたが、38歳野時に遅い結婚をしました。夫は中国の田舎から蒋介石の軍隊にとられて、台湾に渡ってきた外省人です。子どもが産めないので、養子をもらって育てました。その養子の息子には結婚して子どもも生まれたのですが早くに亡くなり、嫁も出て行ってしまったので、2人の孫は私たち夫婦が育てました。

■恥ずかしいのは私たちではない

1992年に、台湾でも「慰安婦」の問題が公けになり、私も日本に行って裁判の原告になりました。何も知らない若い女の子をだまして連れて行った日本政府には責任があります。自分のことを恥ずかしいと思って生きてきましたが、同じ経験をした仲間たちに出会ってそうではないと気づきました、「恥ずかしいのはウチたち(*注)ではない、恥ずかしいのは、何も知らない女の子をだまして連れて行った日本の方ではないか」と。

注:黄さんは日本語で話される時に、ご自分のことを「ウチ」と言われましたので、ここでもそのまま使うこととします。当時の台湾には関西や九州方面の人が多く移住していたので、台湾人の使う日本語の語彙にそれらの地域の方言が入っている例は珍しくありません。

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