【被害者証言】Pさん(マレーシア)

  • マレーシア スランゴール州スルダン出身
  • 連行年:1942年4月(15歳)
  • 連行先:クアラルンプール

●証言内容

私は日本の占領時代、スランゴール州のスルダンに住んでいました。そこで、ラバータッパー(ゴムのプランテーション労働者)として働いていました。

15歳だった1942年4月、私は家の台所で昼ご飯の準備をしていました。その時、村に2台のトラックが入ってきたのです。日本軍のトラックでした。トラックから降りた日本兵は銃を持って家に押し入り、私を捕まえて連れていこうとしました。父は私を取り戻そうと日本兵と争いましたが、日本兵は父の頭を銃剣で殴り、倒れた父を蹴ったのです。弟も私を取り戻そうとして日本兵に飛びかかりましたが、捕まえられてトラックの中に放り込まれてしまいました。それが弟を見た最後でした。弟は戦後も帰ってきませんでした。

私は台所で、両親の目の前で3人の日本兵に強かんされました。初潮前の少女にとって、それは言葉では言い表せない恐ろしい恐ろしい暴力でした。そしてトラックに投げ込まれたのです。

私は、スルダンからクアラルンプールのアンパンにあった二階建ての大きな家に連れ込まれました。私は抵抗した時に投げられて怪我をしていたようで、頭から出血して体が血まみれになっているのに気がつきました。それからの日々、その家で毎日何人もの日本兵に強かんされたのです。

しばらくして私は、ジャラン・プードゥーのタイセンホテルに移され、さらにゴガンという大きな慰安所に移されました。日本兵には「六軒屋」として知られている慰安所でした。その建物は新しい国立図書館に隣接しており、日本の敗戦まで、私はそこに監禁され強かんされたのです。

戦後、解放されて村に帰りましたが、村の人たちから「汚らわしい裏切り者」といって唾をはきかけられ村にいられず、引っ越さねばなりませんでした。両親は私を結婚させましたが、子どもを産めませんでした。慰安所での記憶がよみがえり、夫が近寄ると本能的に避けてしまい、夫とはうまくいきませんでした。そのため養女をもらい、今はその夫と暮らしています。

誰にもその時の体験を話したことがありませんでした。私は、両親の本当の娘ではなく、父が中国で買ってきた妹仔で、本当の両親が誰か知りません。

*妹仔:戦前の中国では貧困のために子どもが売られた。買われた子どもは大きくなると奴隷的な家事労働者として働かされた。

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