9-6 日韓「合意」は「1ミリ」も動かすべきでない?

2015年12月28日、日韓の両外相は、日本軍「慰安婦」問題が「最終的かつ不可逆に解決される」ことを確認する共同記者発表を行いました(以下、「日韓「合意」」1)。ところが、韓国内ではこの記者発表直後から批判の声が次第に高まり、その後の政権交代の一要因ともなりました。日本国内では、むしろ韓国政府への反発が強まることになりました。なぜ、「解決」とは程遠い状況となったのでしょうか。

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政府間の妥結

日韓の両政府が交渉をはじめる発端となったのは、日本軍「慰安婦」被害当事者たちの訴えを受け、2011年8月に韓国の憲法裁判所が下した決定でした(12-2参照)。その決定を受けて当時の李明博イミョンバク政権2は、日本軍「慰安婦」被害者個々人の請求権問題を中心に日本政府を協議せざるを得なくなりました。成果もないまま、その後、日本では安倍晋三政権、韓国では朴槿恵パククネ政権が発足しましたが、当初はこの問題について進展がありませんでした。

そこに仲介に入ったのが米国です。日韓関係がぎくしゃくすると東アジアの安保に同様が生じるという観点から、オバマ政権があいだに入って両首脳に働きかけました3。その結果、2014年4月から日韓の協議が始まりました4。議論は平行線が続きましたが、2015年8月の安倍談話(9-5参照)後、朴槿恵大統領は日韓国交正常化50周年である同年内の「合意」に意欲を示しました。それを受け、同年11月の日韓首脳会談以降、急ピッチで調整が進められ、年末の妥結にいたったのでした。当初、日本軍「慰安婦」被害当事者たちの訴えからはじまった2国間協議は、いつの間にか「東アジア安保」のための政治的妥結の場に変貌していったのです。

その「合意」の概要は次のようなものでした5

・日本政府の「慰安婦」問題についての基本的立場の表明(日①)6

・韓国政府が設立した財団に日本政府が予算を一括拠出し、日韓政府が協力して、日本軍「慰安婦」の名誉と尊厳の回復および心の傷の癒しのための事業を行う(日②、韓②)。

・この措置が着実に実施されるとの前提7で、「慰安婦」問題が「最終的かつ不可逆に解決される」ことを確認される」ことを両政府が確認するとともに、国際社会でこの問題について互いに非難・批判するのを控える(日③、韓①・③)。

・韓国の日本大使館前の<少女像>(平和の碑)について、韓国政府が適切に対処するよう努力する(韓②)。

批判の声

韓国では、日韓「合意」の発表当日、韓国挺身隊問題対策協議会をはじめ、女性団体、宗教団体など114もの市民社会団体が連名で抗議声明を出したほか8、マスコミからも批判の声が相次ぎました9。その根幹には、人権問題なのに当事者不在で民主主義的なプロセスを経ず、秘密裏に「合意」してしまったことへの批判があったといえます。だからこそ2016年秋以降、朴大統領の「下野」「弾劾」を求める大衆運動が高揚すると、その論点の1つにこの問題が含まれることになったのです。朴大統領の罷免成立後、2017年5月に行われた大統領選挙では、与野党の主要な候補者がいずれも日韓「合意」の無効化ないし再交渉を公約に掲げたのは、そうした背景があったからです。その1人であった文在寅ムンジェイン大統領が第19代大統領に当選したのです。

批判の声は、国際的な人権諸条約機関からも出されました。女性差別撤廃委員会では、日本審査最終見解(2016年3月)で、「最終的かつ不可逆に解決される」とする「合意」において「被害者中心のアプローチを十分に取らなかった」としただけでなく、「被害者のために効果的な救済策が引き続き取られていないこと」が「被害者・生存者の権利に継続的な影響を及ぼす深刻な侵害を引き起こしている」としました10

ところが日本政府は、こうした潮流から目を背けました。安倍政権にとってこれは「慰安婦」問題を<終わらせる合意>であり<韓国を黙らせる合意>だったからです。2016年8月に発足した財団が安倍首相に「おわびの手紙」を求めても、「毛頭考えていない」と一蹴し11、「合意」以降は謝罪を一切しない態度を明確にしました。

それどころか日本政府は、韓国の財団に10億円拠出することで「最終的」な債務は果たし、あとは韓国政府が<少女像>を撤去しないことが問題だと、借金取りのように「合意履行」を一方的に要求する態度を貫いてきました。2017年1月に釜山の日本総領事館前に<少女像>が建つと、日本政府は「誠意」を示せなどと抗議して対し・総領事を帰国させるという強硬措置までとりました。「責任を痛感」すると表明していた態度はどこかへ吹き飛んでしまったかのようでした。

韓国政府の立場を日本政府はどう受け止めるべきか

文在寅大統領は、2017年5月の就任直後の安倍首相との電話会談で、「国民の大多数」が日韓「合意」を信条的に受け入れられないと伝えましたが、すぐに再交渉には踏み切りませんでした。その代わり、まず7月に日韓「合意」の検証を行うタスクフォース(特別作業班)を外交部長官直属で設置しました。

タスクフォースは同年12月に報告書を公表しました12。その検証によって、交渉過程で「責任」の意味を故意にあいまいにし、マスコミ想定問答まで調整していたこと、日本政府が「後戻りできない」ように「不可逆」との表現を提案したのは韓国政府だったこと、日本政府にとっての「最終的」解決の要件が予算拠出のみと合意していたわけではないこと、<少女像>などについては韓国側に不利な非公開「合意」が存在していたこと、被害者や関係団体に事前ヒアリングはしたものの「合意」への具体的な説明を欠いていたことなど、被害者中心ではなく「政府の立場」を中心とした「合意」だったことが明確になりました。これらは、被害者中shんのアプローチと民主的な手続きを重視し、日本の法的責任認定と賠償を最善の解決策とする新政権の立場が前提にあったからこそ明らかにし得たものです。

これを受け、2018年1月に韓国の康京和カンギョンファ外相は新方針を発表しました13。被害者中心のアプローチからして日韓「合意」は真の解決足り得ないと明言しながらも、再交渉は求めず、日本政府の自発的で誠意ある言動を期待するという骨子のものでした。この方針を文大統領の新年の記者会見で確認し、対日外交の「ツートラック」方針14にもとづいて「未来志向」の関係を強調しつつも、真実と正義を原則に据えた日本の自発的な対応を期待するを述べました。日韓「合意」が公式的なものだったことに鑑み、被害当事者や関連団体からの不満も十分に織り込んだうえで、日本政府に配慮した苦渋の選択を下したといえます。

にもかかわらず、韓国政府の新方針に対して、菅義偉官房長官は「全く受け入れることができない」「合意を1ミリたりとも動かす考えは全くない」と即座に拒否反応を示しました。さらに政府与党内では、2月に韓国の平昌ピョンチャンで開かれる冬季オリンピックの開会式に安倍首h省が出席すべきでないとする反発まで強まりました。結局、北朝鮮問題などの国際情勢の変化を受け、安倍首相は訪韓しました。しかし、平昌で開かれた日韓会談は「慰安婦」問題で原則的立場の確認に終わり、その後、北朝鮮問題でも関係諸国が対話路線へと傾くなかで強硬路線を貫く日本政府が取り残され、従来の安倍政権の外交戦略は見直しを迫られることになりました。

これまでのプロセスは、被害者中心のアプローチと民主的な手続きにもとづき、日本政府自らが真相究明を進め、過去の法的責任を認め、それを前提として賠償を行うことから目を吸向け、政治的取引で「合意」しても解決にはなり得ないことを指し示しています15。いま日本政府が行うべきことは、もう問題が「終わった」と言いつのることではなく、真実と正義にもとづき過去を克服するための新たな一歩を踏み出すことなのです。

  1. 記者発表の全文は参照
  2. 韓国は李明博政権(2008年2月~2013年2月)、朴槿恵政権(2013年2月~2017年5月、ただし最後の5か月は黄教安大統領代行)、文在寅政権(2017年5月~2022年5月)、日本は民主党政権(2009年9月~2012年12月)から安倍晋三政権(2012年12月~2020年9月)へと政権は変わった。
  3. 2014年3月にハーグで米・日・韓の首脳会談が開催され、ここで日本軍「慰安婦」問題に関する局長級協議の開始が合意した。
  4. 2014年4月から局長級協議が計12回、同年末から並行して高官級(ハイレベル)協議が計8回にわたり開かれた。
  5. 日韓「合意」は日本側3項目、韓国側3項目でまとめられたが、それを「日①」といった略号で表す。
  6. 鋼の談話から抜粋した表現が用いられたが、「軍の関与」の中身があいまいであり、その結果、責任の所在がより不明瞭なものとなった。この点を含め、日韓「合意」の問題点については、参考文献に掲げた書籍を参照されたい。
  7. 「最終的かつ不可逆」な解決の前提について、日韓の発表の仕方にズレがあり、何が「解決」の前提となるのかが不明瞭となった。これについては、検証結果を参照。
  8. 「日本軍「慰安婦」問題解決のための韓日外交長官会談合意に対する諸市民社会団体の立場」(2015年12月28日)。その批判の対象は、日本の責任認定の曖昧さ、被害当事者抜きの政府間の「解決」、<少女像>との連動などであった。
  9. 日韓の報道の違いについては、岡本有佳「日韓のメディア比較」(参考文献『「慰安婦」問題と未来への責任』所収)を参照。
  10. 「日本の第7回及び第8回合同定期報告に関する最終見解」第28~29パラグラフ(外務省ウェブページ「女子差別撤廃条約」に日本語訳あり)。このほか、拷問禁止委員会も韓国審査最終見解(2017年5月)で、「補償及び社会復帰への権利、真実の権利、賠償および再発防止の確保」といった観点から、日韓「合意」の見直しを勧告した(国連文書CAT/C/KOR/CO3-5,2017,para,48d)。日本政府の反論「5月12日の対韓国審査最終見解に関する日本政府意見は、外務省ウェブページ「拷問等禁止条約」に掲載されている。
  11. 2016年10月3日衆議院予算委員会
  12. タスクフォース掲載ページ。韓国政府による日本語全訳は、韓国大使館がウェブサイトで公開している。
  13. 記者発表全文の翻訳掲載ページ
  14. 文字通りには「二重路線(two-track)」の意味。文在寅政権の対日外交の基本姿勢で、合致の困難な歴史問題とその他の協力可能な分野とを切り離して進める戦略のこと。
  15. 現実的な問題解決の方向性として、関連団体による日本政府への提言「日本軍「慰安婦」問題解決のために」(第12回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議、2014年6月)を参照。
<参考文献>

・中野敏夫・板垣竜太・金昌禄・岡本有佳・金富子編『「慰安婦」問題と未来への責任』大月書店、2017年

・前田朗編『「慰安婦」問題・日韓「合意」を考える』彩流社、2016年

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