13-1 アメリカ、カナダの日系人への戦後補償~合い言葉は「リドレス」~

目次

1.アメリカの日系人への戦後補償

戦時中に強制収容された日系人たち

1941年12月7日の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃直後に、日系人指導者が逮捕されました。翌年2月の「大統領行政命令9066号」により、西海岸諸州に住む日系人に退去命令が出され、法の正当な手続きもなく、約12万人が内陸にある収容所(11カ所)に集団的に送られました。過酷な収容所生活のなかで、財産損失だけでなく、大きな精神的打撃を受けました。同じように「敵性国人」とされたドイツ系、イタリア系は財産放棄や長期にわたる強制収容はなかったので、人種差別であったと言えます。

1970年代に3世たちがはじめたリドレス運動

戦後、日系人は沈黙を続けました。しかし1960年代の公民権運動(アフリカ系による権利獲得運動)に刺激をうけて、1970年に若い3世たちによって収容所跡地への「巡礼の旅」が組織され、歴史の掘り起こしが始まりました。1978年、日系米市民協会(JACL)の年次大会で謝罪と補償を求める運動を立ち上げました。1980年に日系人補償賠償実現連合(NCRR)が結成され行動を起こし、二世を中心とする日系アメリカ人補償全米連合(NCJAR)は1983年に集団訴訟による補償裁判を起こしました。

1980年、収容について調査する委員会の法案が成立し、翌年から全米10都市で公聴会が開かれた(20日間、750人の関係者が証言)ことで、2世たちが証言をはじめました。これに基づき出された調査委員会報告書『否定された個人の正義(Personal Justice Denied)』(83年)では、日系人の訴えをほぼ認め、生存者への補償(一人当たり2万ドル)などを勧告しました。

以後、補償法案が議会で審議され、ついに87年9月、日系人補償を定めた「市民的自由法案」が下院本会議で可決され、翌年4月に上院でも同様の法案が可決されました、一本化された法案に対して、88年8月にレーガン大統領の署名を得ました。

「市民的自由法」とリドレス

 このときに使われたのが「リドレス(redress)」という言葉です。「金銭による補償(reparation/compensation)」ではなく、「不正・過ちを正す」ことを意味します。

同法(Civil Liberties Act of 1988)は、まず「日系人の基本的な市民的自由と憲法上の権利の根底からの侵害に対し、議会は国を代表して謝罪する」と公式謝罪を行い、一人2万ドルの個人補償を規定しました。その対象者は収容当時、日系のアメリカ市民または永住外国人で、同法成立時に生存していた人です。亡くなった人は除外されましたが、立法後に亡くなった人はその家族などに補償金が支払われました。戦後日本に帰化して日本に住む人も補償されました。約6万人が対象となりました。また対象者には「第二次大戦中に重大な不正義が日系アメリカ人に対して行われた」ことを認めた「ブッシュ大統領の手紙」が送られました。

特徴的なのは、被害者に申請の必要はなく、補償対象者を探す責任はアメリカ政府が負ったことです。「アメリカ政府の過ちなのだから、政府が責任をもって対象者を探し、謝罪・補償を行うという考え方」(岡部一明)なのです。なお2007年アメリカ下院で「慰安婦」謝罪要求決議案を提出したマイク・ホンダ(1941年誕生)は、幼少期を強制収容所で送った体験をしています。

2.カナダの日系人への戦後補償


カナダでも1942年初めから、日本国籍の成人男子を「道路キャンプ」に送り、西海岸の全日系人をブリティッシュ・コロンビア州内陸部、州北部、プレーリーなどの施設、内陸6カ所の収容所などに送りました。当時の日系カナダ人総数2万2000人のうち91%が移転させられました。

カナダの日系人収容はアメリカよりも過酷であったといいます。初期には多くの場合、家族はバラバラに収容されました。さらにカナダ政府は、収容に当たって日系人の財産を没収し、その売却費用を収容費用にあてました。戻るべき家屋や財産を奪ったのです。それだけでなく、戦後はカナダ生まれの2世(カナダ国籍)を含め約1万人の日系人を日本に送還しようとしました。抗議がおこりましたが、4000人の日系人が日本に送られました。

カナダで戦後補償を要求する運動が始まったのは、アメリカと同じく若い3世が覚醒した1970年代からです。1977年の日系カナダ人百年祭をきっかけに、同年日系カナダ人賠償委員会(JCRC)が結成されました。1980年には補償要求を最重要課題に掲げた全カナダ日系人協会(NAJC)が新たに改組され、84年に同団体の意見書「裏切られた民主主義」が政府に提出されました。87年に日系以外も含む日系カナダ人補償全国連合(NAJA)も組織されました。翌88年にオタワで400人のデモ行進が行われた。

88年9月22日、アメリカに続いて、カナダのマルルーニ首相は議会で日系人補償を行う声明を発表した。その内容は、過去の不正を認め、生存する収容所体験者に一人当たり2万1000カナダ・ドルの個人補償、さらに日系社会全体への社会・教育・文化への助成1200万カナダ・ドル、人権擁護のための「カナダ人種関係基金」設立費用2400万カナダ・ドルの拠金です。アメリカが立法による個人補償だったに対して、カナダではNAJCとの「合意」(協定)の形をとり、個人補償だけでなくコミュニティへ助成がある点などが異なっています。

2012年5月、ブリティッシュ・コロンビア州政府がカナダ連邦政府による強制収容を積極的に支援したとして、正式に謝罪しました。BC州政府のヤマモト・ナオミ高等教育大臣(両親は体験者)が同州議会に謝罪を含む動議を提出したところ満場一致で可決され、州議会議長が謝罪を表明しました。

<参考文献>

・岡部一明『日系アメリカ人ー強制収容から戦後補償へ』岩波ブックレット、1991年
・<ハンドブック戦後補償>編集委員会編『ハンドブック戦後補償』梨の木舎、1992年
・マリカ・オマツ著、田中裕介・田中デアドリ訳『ほろ苦い勝利—戦後日系カナダ人リドレス運動史』現代書館、1994年
・村川 庸子『境界線上の市民権.日米戦争と日系アメリカ人』御茶の水書房、2006年
・TBSドラマ「99年の愛~JAPANESE_AMERICANS~」2010年11月3日 – 11月7日放映
・NHK・BS1ドキュメンタリー「沈黙の伝言~日系カナダ人強制収容70年」2013年1月16日放映
・「カナダのBC州政府、強制収容に公式謝罪」(バンクーバー新報2012年5月10日第19号)
・JB PRESS   http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35338
・Nikkei Internment Memorial Centre http://www.historicplaces.ca/en/rep-reg/place-lieu.aspx?id=15382

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