13-2 戦後補償日本とドイツ

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戦後補償日本とドイツ

日本は、サン・フランシスコ平和条約の賠償規定を基に、個々の求償国との個別国家間交渉による相互協定に委ね、経済援助・協力の意味合いで賠償を実践してきました。その中に個人補償なども含め、補償問題も「解決済み」としました。

一方(西)ドイツ政府は「ロンドン債務協定」で、戦前の債務を受入れる代わりに戦争損害への賠償を平和条約締結後に先送り、実質的に賠償をせずに済みました。これは、経済援助・協力の意味合いでの賠償が認めらなかったことと関係します。それに対し個人補償は実施され、2000年には強制労働補償基金が創設されて現在にいたります。

ドイツの戦後補償の開始と展開

日本の戦後補償を考える上で、ドイツの戦後補償がいかなる意味で参考になるのかを検討しましょう。ドイツは、何を根拠に、どのような被害に対して、補償したのでしょうか? かなり複雑です。

補償の開始時期から整理すると、まずはイスラエル・ユダヤ人組織との協定(1952年9月)。ドイツからイスラエルへのユダヤ人移住への援助と連邦補償法制定の約束からなります。次に、「ナチ被迫害者連邦補償法」(1956年6月)(前身の「連邦補足法」実施の53年10月に遡って施行)。これが補償総額からして約8割を占め最も重要です。第三に、1957年以降、化学企業IGファルベン社をはじめとする個別企業による補償。強制収容所に収容され、なおかつ強制労働をさせられたユダヤ人に限定しての補償です。

以上から、「補償」概念が「政治的・人種的・宗教的な理由による迫害」という狭義の「ナチ不正」の被害(「ナチ被迫害者」)を意味し、かつ対象はドイツ国籍ないし居住者への限定(「属地原則」)という特徴が確認できます。これによって排除された西側諸国11カ国は「ナチ不正」の非ドイツ人被害者への補償を求めて「補償外交」を展開しました。ドイツは1959年から60年代前半にかけて西側諸国とそれぞれ個別に包括的補償協定を締結しています。

こうして強制労働は一般的な戦争の結果に属し、賠償の枠内でのみ扱われるとされ、外国人強制労働者の補償請求権は否定されることになりました。

ヴァイツゼッカー大統領が1985年5月、第二次世界大戦終結・ドイツ無条件降伏40周年を記念して、「いやしくもあの過去に対して眼を閉ざす者は、結局は現在に対しても盲目となります」という演説をしたことは日本でも良く知られています。その際に想起されていた被害者の中には、この間補償対象が拡大された人たち(たとえばシンティ、ロマ、ホモセクシュアル、精神障碍者など)は含まれていましたが、外国人強制労働者は想起の対象とはなっていませんでした。

ドイツ統一後の戦後補償

1990年のドイツ統一に際し、強制労働者の補償問題が解決される余地もありましたが(「二+四条約」)、強制労働者の補償問題は条約から排除されました。その一方でドイツは、東欧諸国のナチ迫害被害者に「和解基金」を設立させました(ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、ロシア)。しかし強制労働などに対する補償責任を認めたものではなく、経済的困窮者に対する人道的給付でした。一時金を支給された被害者は補償とみなさず、その後もドイツ政府への圧力はつづきました。

日本で強制連行・強制労働、「従軍慰安婦」に対する補償要求の運動が開始された時期に、ドイツでの未解決の問題は民間人と戦時捕虜の強制労働でした。強制収容所に収容されても補償対象からは排除されていました。政府・企業が一体となって、強制労働はナチ不正の被害ではないという論理を貫徹しました。

ドイツ補償基金「記憶・責任・未来」創設

それに対して被害者組織は補償問題を積極的に提起し、裁判に訴える道をとりはじめました。1996年の連邦憲法裁判所の判決によって、強制労働の被害に対する個人的補償請求の可能性が開かれましたが、地裁レベルで勝訴した訴えも控訴審では敗北しました。

大きな転換点は1998年3月のアメリカでのフォード本社とドイツ・フォード社に対する集団提訴です。同年9月の連邦議会選挙で社会民主党と90年連合・緑の党が勝利し、「ナチ強制労働補償」へと動きました。翌年2月に「ドイツ経済の基金イニシアティヴ<記憶・責任・未来>」が設立されました。被害者側も補償基金設立へ向けた交渉のテーブルにつき、99年12月に合意して、ラウ大統領が「赦しを請う」演説を行いました。

こうして、ドイツ企業の不正への「関与」、企業の「歴史的責任」と連邦議会の「政治的・道義的責任」を認める内容の強制労働補償基金が、2000年7月に連邦議会で可決されました。2004年3月末までに170万人の資格保持者のうち150万人が補償の最初の給付金を受け取りました。

ドイツの戦後補償の特徴

ドイツ戦後補償の経緯の特徴を挙げますと、①特殊な「ナチ不正」概念を基礎とし、「ナチ不正」以外の「戦争犯罪」と「人道に対する罪」の被害者への補償を排除したこと。②外国からの圧力によって補償が開始され展開したこと。この外圧に対応して補償のユダヤ人・非ユダヤ人の差別化、東西差別化が行われてきました。③1990年代末にはアメリカがこの問題で再登場したこと。④ドイツ国内では、補償問題に関わってきた90年連合・緑の党と社会民主党の革新連立政権の成立したこと、があげられます。

戦後補償の日独の差異は1990年代半ば以降顕在化しましたが、過去を想起する日独の姿勢の違いは、1960年代後半以降から1980年代前半までの時期における日独の異なった歩みに根源を見出すことができます。一つは、学問・教育レベルでの批判的歴史学の成立と展開、医学界や司法界などでの過去への批判的まなざしの醸成。もう一つは、法的責任を追及した被害者の運動体が強制労働補償基金成立交渉の一主体として位置づけられたことです。ここに日本の「アジア女性基金」(国民基金)との基本的な違いがあります。

日本がドイツの「過去の克服」を乗り越える可能性

しかしドイツでは、戦時捕虜は強制労働補償基金の対象にならず、戦時「性的強制」(収容所で女性たちが性的な相手をさせられたこと)は問題にもされていません。強制労働も「ナチ不正」の一つとみなされてはじめて戦後補償の対象となりました。それゆえ、強制連行・強制労働、「従軍慰安婦」など日本の過去を克服するには、ドイツの戦後補償の論理、とりわけ「ナチ不正」概念を克服することが急務となります。こうした一連の日本の過去の問題は、ドイツの戦後補償の論理では排除されるからです。しかしこの克服作業は2000年に「女性国際戦犯法廷」が開始しています。これは、「過去の克服」の先進国とされているドイツを乗り越える可能をもつものと考えられます。

<参考文献>

・粟屋憲太郎他『戦争責任・戦後責任―日本とドイツはどう違うか』朝日新聞社、1994年

・石田勇治『過去の克服―ヒトラー後のドイツ』白水社、2002年

・倉沢愛子ほか編集『20世紀の中のアジア・太平洋戦争(岩波講座アジア・太平洋戦争8)』岩波書店、2006年

・佐藤健生・N.フライ編『過ぎ去らぬ過去との取り組み―日本とドイツ』岩波書店、2011年

・ペーター・ライヒェル『ドイツ 過去の克服』小川保博・芝野由和訳、八朔社、2006年

・ベンジャミン・B・フェレンツ(住岡良明・凱風社編集部訳)『奴隷以下―ドイツ企業の戦後責任』凱風社、1993年

・松村高夫・矢野久編『裁判と歴史学―七三一部隊を法廷からみる』現代書館、2007年

・望田幸男編『近代日本とドイツ―比較と関係の歴史学』ミネルヴァ書房、2007年

・矢野久「ドイツの過去の責任」金富子・中野敏男編『歴史と責任-「慰安婦」問題と1990年代』青弓社、2008年

R.v.ヴァイツゼッカー(山本務訳)『過去の克服・二つの戦後』NHKブックス、1994年

R.v.ヴァイツゼッカー(永井清彦訳)『荒れ野の40年』岩波ブックレット、1986年、2009年(新判)

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