【被害者証言】金英淑(朝鮮民主主義人民共和国)

金英淑 イラスト_s

  • 1927年1月14日、平安北道泰川郡鶴峰里で生まれる。
  • 連行年(年齢):1940年( 13歳)
  • 連行先:中国瀋陽

●証言概要:

物心つかないころに母を亡くし、鉱夫の父を病気で亡くして、私たち3人きょうだいは孤児になってしまいました。10歳のとき、私は奉公に出て、朝から晩まで働きました。3年が過ぎた1940年のことです。日本人巡査が奉公先の家に来て、主人とひそひそ話していました。その後、私は主人に呼ばれて部屋に行くと、そこにいた巡査は私に「きれいな服を着て、お金をたくさん稼げるところに行こう」と言いました。当時私はまだ、世間知らずの子どもであり、つらい仕事で苦労していたので、下働きの生活から抜け出したいという気持ちから、「行く」と答えました。そして、どこに行くのかもわからないまま、松林駅から汽車に乗せられました。私は文字が読めなかったので、駅名を読むこともできませんでした。

数日後にようやく汽車を降り、馬車に乗り換えて日本兵が大勢いる兵舎の前に着きました。民間人は一人も見当たりませんでした。私を連れてきた日本人巡査は私を将校に引き渡すと、1人で帰ろうとするのです。私は急に不安になって一緒に帰ると泣きすがったのですが、巡査は叱りながら私を押し倒しました。それでも私はついていこうとしましたが、日本兵は軍犬を突き付けて私を脅したのです。獰猛な犬が吠えながら飛びついてきたので、私は恐怖でその場にしゃがみ込んでしまいました。

慰安所で軍人にタバコの火を押し付けられた跡が、今も残っている

慰安所で軍人にタバコの火を押し付けられた跡が、今も残っている

ナカムラという将校は私を木造の長屋に連れて行きました。長屋の周りを高い塀が取り囲んでいて、そのうえ鉄条網が張り巡らされていました。ところどころに軍犬を従えた見張りの兵隊が立っていました。それでもその時は、何かの工場だと思っていたのです。

将校は私を一番隅の部屋に入れ、日本の着物を着るように命じ、「お前はこれからオカダだ」と、言いました。その晩、私はナカムラに強かんされました。私はただただ怖くて部屋の中を逃げ回りましたが、それに腹を立てたナカムラは私を押さえて服を脱がせました。ところが私はまだ幼かったので挿入できず、それにいらだったナカムラは軍刀を取り出して私の性器に差し込みました。私は悲鳴を上げて気を失ってしまいました。朝方になって気がつくと、下半身は血まみれでズキズキ痛み、座ることもできませんでした。

ある時、部屋に入ってきた軍人に抵抗して、腕にかみついたことがあります。軍人はカンカンに怒り、私を床に打ちつけ、靴で蹴り、足を踏みつけました。またある時は、火のついたタバコを足に押し付けられたこともありました。今もその時の火傷のあとが残っています(写真参照)。

慰安所で5年の歳月が流れました。初めの頃は20人あまりいた「慰安婦」は次々に亡くなり、残ったのは数人だけでした。いつか、私も彼女たちのようになるという恐怖が頭から離れませんでしたが、逃げたくてもどうしようもありませんでした。

当時、部隊には数人の朝鮮人の青年が軍属として駆り出されてきていました。ある日、部屋の外に出た時に、私は朝鮮人のキム・サングクという青年に会いました。私はなんとかしてここから逃げられるよう助けてほしいと、彼に頼んだのです。彼は約束してくれました。

ついに大晦日の日の夜、彼が塀を越えるのを助けてくれたため、私は慰安所を脱出することができたのです。1945年、敗戦の年の春でした。

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