【被害者証言】ジェラルダ・カルドゾ(東ティモール)

【被害者証言】ジェラルダ・カルドゾ(東ティモール)

  • 1930年頃、ポルトガル領ティモールのティロマールで生まれる
  • 被害にあった期間:日本軍の侵攻から撤退まで
  • 被害にあった場所:スアイ、ベコ、ボボナロの慰安所
サゴ椰子

サゴ椰子

サゴ椰子の樹幹の芯を粉砕しかけたもの

サゴ椰子の樹幹の芯を粉砕しかけたもの。粉砕後ふるいにかけて粉を分離し、水に浸して沈殿した澱粉をすくい取る。1942年2月に侵攻した日本軍は先に上陸した連合軍を駆逐するが、1943年末には戦況の変化で制空権・制海権を失い、物資の補給が途絶える。日本軍の「現地自活」でサゴ椰子澱粉なども日本軍の食糧となった。

●証言概要:

■夜になると兵士の相手をさせられました
私はティロマールのワラ村で生まれました。戦争が始まると日本人が村ヘやってきて、男も女も集められました。軍用道路をつくるためです。
私はまずスアイの町まで連れていかれ、昼は日本軍の食糧にするためにサゴヤシ(写真)をつき、夜になると兵士の相手をさせられました。行くのは嫌でしたが、行かないと母や父が撃たれると思いました。
慰安所があったのはダノ・オアンです。彼らは私の肩を押さえてこう足をつかんで・・・もうじき死ぬのだからこういう話も恥ずかしくはありません・・・。「慰安婦」はフォホレムやファトゥメアンなどからも集められました。兵士たちはコンドームをつけていました。私たちはそれが何か知らなかったので、ずっとコンドームを恐れていました。

■今度はベコ、そしてボボナロでも・・・
スアイでは1カ月ほど働かされ、次にさらに東のベコに移されました。ベコでの仕事も食糧生産でした。ベコでは道路工事にかり出された他の村の人々と合流しました。そこでも女性が選ばれて兵士の相手をさせられました。ベコには4ヶ月いました。その後日本軍の大きな駐屯地があるボボナロに移されました。ボボナロでの仕事は、昼は食糧生産、食事の支度、掃除、そして石運びでした。 夜になると1人ひとり別々の部屋に連れていかれ、兵士の相手をさせられました。
ボボナロには2年間いました。家には終戦まで帰れませんでした。私たちは金も服ももらえず、食べ物も満足にありませんでした。食べ物はサゴ椰子や野菜を自分たちで調達しなければなりませんでした。

日本軍の将校としてはノグチという人を憶えています。この将校の命令でマウ・バウというティモール人の男性が女たちの身体のすみずみまで洗いました。彼はコンドームも洗いました。それがすむとノグチは「きれいにしたらさっさと部屋へ連れて行け」と命令しました。ある時、マウ・バウは女性を犯そうとし、日本人に撃たれて死にました。

■いわれのない非難
戦争が終わり村へ帰ると、「お前たちは日本人の女になった」と蔑む人がいました。ワラ村ではクレメンティナ・カルドゾさんも「慰安婦」にされました。その後、私はジェラルド・シメネスと結婚しました。結婚する前、日本軍の慰安婦にされたことを夫に話しました。夫は「もしお前が慰安婦にならなかったら日本兵に殺されていただろう。いっしょになろう」と言いました。子どもは娘がひとりできましたが、結婚後病気で亡くなりました。今は孫と暮らしています。
再び日本の軍隊が(※国連PKFとして自衛隊が)来ると知った時もこわくはありませんでした。昔日本の軍隊がここでしたことをきちんと話してあげたいと思いました。

<追記>

日本軍の命令を拒んで銃殺されたスアイのリウライ(王)

スアイには女性を差し出せという日本軍の命令を拒んで処刑されたリウライ(伝統社会の指導者)がいました。その1人はマルセロ王と言います。マルセロ王の死に関して、妻のウェヘルミナ・ホアタエさんは以下のように語りました。
「私の夫は、日本軍から女性を差し出すように命令されているが、その命令に従いたくはないと語っていました。ある日、日本軍から夫に召喚状が届き、夫は正装してボボナロまで出かけました。それが夫を見た最後となりました。
また、王の従者だったパウリノ・セランさんは、処刑の様子とその後に起こったことについて、このように語っています。
「リウライが召喚された日、ナイ・セランというティモール人のポンベラ(日本軍協力者)がリウライを連れにきました。私はボボナロの司令部まで付き添い、リウライが衆人環視のもと両手を縛られて銃殺されるのを目撃しました。リウライが死ぬと日本軍はボンベラを使って女性たちをかり集めました。日本軍はリウライの妻・ウェヘルミナさんも標的にしましたが、村人たちは一致団結して彼女を守ったので、見つかりませんでした。しかし日本軍はしつこく探し続けて彼女の義理の姉を見つけ出し、慰安婦にしてしまいました」

このような状況下で「慰安婦」にされた女性にフランセスカ・マセドさんがいます。最後に彼女の証言を紹介します。
「私は日本軍の命を受けた村長に呼ばれ、ベ・マタの慰安所に連れていかれました。『言うことをきかなければ親を殺す』と言われました。最初に私をレイプしたのはある将校です。その後私は3年間にわたり毎日10人、時にはそれ以上の兵士の相手をしなければなりませんでした。日本人は私をトミコ、友人をサチコと呼びました。日本政府には私のこの苦しみに対して償いをしてほしいです

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