『朝日新聞』バッシングの主張
日本軍「慰安婦」問題に関して旧日本軍の責任を否定する主張には、「慰安婦」問題そのものが『朝日新聞』の誤報によってねつ造されたというものがあります。それは三点にまとめることができるでしょう。
(1)『朝日新聞』は朝鮮人慰安婦が女子挺身隊として戦場に連行されたというねつ造をした(金学順さんを初めて報じた1991年8月11日朝刊、軍の関与を示す文書の発見を伝える1992年1月11日朝刊の記事で)。
(2)『朝日新聞』は金学順さんがキーセンとして売られていたことを記事に書かず隠蔽した(1991年8月11日および金学順さんらが日本政府を相手に訴訟を提起したことを伝える同年12月6日夕刊の記事で)。
(3)1992 年1月11日の『朝日新聞』の報道が「強制連行」という誤解を生み出した。
結論を先にまとめておくと(1)については『朝日新聞』だけの誤りではなく、当時の日本社会の「慰安婦」認識を反映したものだった、(2)については金学順さんの被害とは関係のないことがらなので他紙でも報道されていない、(3)については同日の『朝日新聞』記事本文に「『慰安婦』は強制連行された」という記述はない、となります。以下、順に検証してみましょう。
「女子挺身隊=慰安婦」という認識
(1)について。「女性挺身隊=慰安婦」という認識に問題があったことは事実です。しかしながら、このような認識の下で報道していたのは『朝日新聞』だけではありません。たとえば『読売新聞』も「女子挺身隊」という舞台公演を紹介する1987年8月14日の記事でのように書いています。
つまり、(1)の「女子挺身隊=慰安婦」という認識は、1991年当時の日本社会の不十分な「慰安婦」問題認識を反映したものです。
また、1991年8月11日朝刊の記事は、金学順さん自身が「慰安婦」とされた経緯については「17歳の時、騙されて慰安婦にされた」としており、「挺身隊として強制連行された」とはしていません。
(2)について。金学順さんが日本軍「慰安婦」とされる以前に、「キーセンとして売られていた」のは、事実でしょうか。金さんが日本政府を訴えた裁判の訴状には、14歳からキーセン学校に通ったとの旨が記されています(訴状は満年齢)。金さんは、注1の証言にあるように、「踊り、パンソリ、時調」など芸能を学ぶため妓生(キーセン)養成学校に通い、17歳で卒業しましたが、年齢が若く役所の許可が下りず、実際には妓生として働いていません。また、「キーセン」という用語も誤解を招きます。金さんは養成学校で歌舞音曲を学んだように、1970年代のキーセン観光のイメージを当時の朝鮮に当てはめるのは無理があります。つまり、金学順さんは実際は妓生(キーセン)にならなかったし、当時の妓生(キーセン)は現在のキーセンと内実が違うので、注意が必要です(注2)。
一方、金学順さんらの提訴を報じる『読売新聞』1991年12月6日夕刊の記事(八五頁写真)は金学順さんについて次のように記述しています。
訴状によると、このうち、提訴のためソウルから来日した女性(67)は、16歳で出稼ぎに誘われ、慰安婦とは知らずに軍用列車で中国北部へ運ばれ、「アイ子」の名前で無理矢理日本軍将兵の相手をさせられた。
「アイ子」とは金学順さんが慰安所でつけられた名前です。同日の『毎日新聞』夕刊もキーセン学校に通っていたことには触れていません。同日の『産経新聞』夕刊は金学順さんについて次のように言及しています。
提訴後、会見した原告団のうち、「従軍慰安婦」として働かされた女性(67)は「昨日初めて日本に来たが、感情が高ぶって一睡もできなかった。私は運良く駐屯地から逃げ帰れたが、多くの人がそこにほうっておかれて死んでいった。私たちの青春を返してほしい。私を一七歳の少女に戻してほしい」と訴えた。
やはり、キーセン学校に通っていたことへの言及はありません。いずれも「訴状によると」「訴えによると」とされている記事ですので、記者は訴状に書かれている金学順さんの経歴を知り得たはずですが、『読売新聞』も『毎日新聞』も『産経新聞』もねつ造に加担したというのでしょうか?
そもそも旧日本軍が金学順さんの人権を侵害したかどうかというこの訴訟の争点にとって、金学順さんがキーセンであったか否かはまったく関係がありません。金学順さんは日本軍「慰安婦」になるという前提でキーセン学校に通ったわけではないからです。現に日本の裁判所も、一四歳からキーセン学校に通ったことを前提としたうえで、「軍隊慰安婦関係の控訴人ら軍隊慰安婦を雇用した雇用主とこれを管理監督していた旧日本軍人の個々の行為の中には、軍慰安婦関係の控訴人らに軍隊慰安行為を強制するにつき不法行為を構成する場合もなくはなかったと推認され」(東京高裁判決)などと判断しています。「キーセンとしての経歴を報じなかったこと」がねつ造であるとする主張は、“すでに売春に従事していた女性が日本軍「慰安婦」とされた場合には旧日本軍には責任がない”という認識を前提としており、この認識は売春に従事する女性に対する根深い差別意識にもとづくものです。先ほど金学順さんの正確な経歴を説明したのは、『朝日新聞』の報道への非難が事実に即しているかどうかを確認するためであって、日本軍「慰安婦」の受けた被害が売春歴の有無によって左右されるわけではありません。
「強制連行」という誤解を生み出した?
(3)について。1992年1月11日の『朝日新聞』朝刊(下段写真)は一面トップに「慰安所 軍関与示す資料」という見出しを掲げて吉見義明さんが防衛庁防衛研究所図書館で発見した公文書について報じました。一面トップ記事のリーを下段に記します。
一読して明らかなように、記事の焦点は、それまで日本政府が旧日本軍慰安所について国としての関与を否定してきたにもかかわらず、「軍の関与」が明らかになったことに当てられています。同朝刊三一面、また同日の夕刊に掲載された記事についても同様で、記事本文と研究者、関係者のコメントのなかに日本軍「慰安婦」の「強制連行」という単語は一度も用いられておらず、発見された資料から明らかになったことを正確に報じています。唯一、朝刊一面の「従軍慰安婦」についての用語解説で「主として朝鮮人女性を挺身(ていしん)隊の名で強制連行した」とされているだけです。これについては(1)で述べたとおりです。
参考までに「河野談話」が発表された翌日、1993年8月5日の報道を振り返ってみましょう。同日の『読売新聞』朝刊は「政府、強制連行を謝罪」という見出しで報じています。『産経新聞』朝刊の見出しも「強制連行認める」です。これに対して『朝日新聞』朝刊の見出しは「慰安婦『強制』認め謝罪」とされています。「河野談話」には「強制連行」という言葉は出てきませんから、「河野談話」の内容をより正確に反映しているのは『朝日新聞』の見出しであり、『読売新聞』や『産経新聞』こそが「河野談話によって日本政府は強制連行を認めた」という認識の下に報じていたことになります。逆に『朝日新聞』は朝刊二六面の記事で、談話に「強制連行」という表現が用いられていないことへの元「慰安婦」の方々の不満を報じています。
以上のように、『朝日新聞』がとりたてて「強制連行」を強調する報道をしていたということはありません。日本軍「慰安婦」問題は、「慰安婦」にされた女性たちの名乗り出をきっかけとし、さらにそれを受けて研究者や市民らによる膨大な日本軍や日本政府関係文書の発掘がなされ、広く社会に知られるようになった問題です。一つの新聞による「誤報」によってねつ造されるようなものではありません。
(2014年10月24日更新)
注1:金学順さんの証言
1924年、中国吉林省生まれ。父の死にともない、母と平壌に戻る。15歳(朝鮮は数え年なので日本より1歳早い)の時、母が妓生を養成する家に養女に出した。そこから妓生券番(妓生養成学校)に通い、「踊り、パンソリ、時調(朝鮮の代表的な歌謡形式)など」を学んだ。17歳で卒業したが、19歳にならないと役所の許可が下りず、妓生として営業できなかった。1941年に養父に連れられ中国へ。北京の食堂で日本軍によってトラックで連行され、将校に「処女を奪われ」た。ここから「慰安婦」生活がはじまった。(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ』明石書店、2006年)
注2:妓生(キーセン):朝鮮王朝時代に官庁に所属して歌舞を演じ接待する「官妓」だったが、朝鮮王朝末期に廃止された。植民地末期に金学順さんが通った妓生券番(妓生養成学校)は、伝統芸能の命脈を保ち、後進を養成するため平壌に設置されたものだ。日本・京都で、芸妓になる前に芸能を学ぶ見習い修行の者をと言うが、金さんのケースもこれにあたる。
1970年代に日本人男性の韓国買春ツアーをキーセン観光と称したが、これは商品価値を高めるためにキーセンと詐称したもので、韓国の伝統文化を貶め、