■被害者の名乗り出の現状
これまで、「慰安婦」にされた体験を自ら公的にした日本人女性は、城田すず子さん(仮名)注1と上原栄子さん(仮名)注2、山内馨子さん注3ら数えるほどしかおらず、ルポや雑誌、本などに聞き取りなどにより間接的に紹介されたのも、鈴本文さん注4(仮名)、高島順子さん注5、笠原フジさん注6、水野イクさん注7ら数人です。しかし、千田夏光さんや元日本兵らの戦記や回想記に部分的に登場する日本人「慰安婦」は多数おり、一方、当時の軍や領事館、内務省、外務省、警察資料等の資料にも日本人「慰安婦」がいたことを示す記述は随所に出てきます。
また、戦後の映画や小説などにも、日本人「慰安婦」は登場しています。いわば、1990年代に「慰安婦」問題が浮上する前から日本人「慰安婦」の存在は周知の事実であったわけですが、先に述べたように公的に名乗り出た3名の女性でさえも、本や雑誌の手記等で「慰安婦」であったことを明らかにしたものの、姿を現して証言集会などで話されたわけではありません。
■なぜ、日本人女性は名乗り出ないのか?
日本人女性が名乗り出ないのには個人的な家庭環境や戦後の状況があるとは思いますが、日本では「慰安婦」への蔑視の視線が根深く、女性たちが名乗り出るには余りに人権意識が成熟していないというジェンダーの問題が重しになっていることも理由の1つとして考えられます。また、「英霊たちを貶めるな」といった、「慰安婦」問題の加害を認めることは「英霊の名誉」を傷つけるといったナショナリズムの高揚も、大きな一因でしょう。名乗り出ることに安全が確保されなければ、女性たちは口を開くことはできません。日本人「慰安婦」に特有の戦友会との関係が足かせになっている女性もいるかもしれません。
「慰安婦は公娼=金儲けの女たち」だと言えば責任が逃れられるような言説が繰り返されている状況も、日本人「慰安婦」であった女性たちが名乗り出られない大きな一因ではないかと思います。
■城田すず子さんが名乗り出た経緯
公的に生の声で証言したというのは、城田すず子さんだけです。城田さんは戦後40年にTBSラジオの取材を受け、翌年、「慰安婦」だった当時の生々しい体験を語る城田さんの声が放送されました。本名で出演したその番組「ニューススペシャル 石の叫び」は、1986年1月と8月(再放送)に放送されました。
放送の冒頭、当時64歳だった城田さんのこんな手記が読み上げられました。
「終戦後40年にもなるのに、日本のどこからも、ただの一言も話されない。兵隊さんや民間の人のことは各地で祭られているのに、中国、東南アジア、アリューシャン列島で性の提供をさせられた女性たちは、散々もてあそばれて、足手まといになったらほっぽり出され、荒野をさまよい、凍てつく山河で食もなく、野獣か狼の餌食になり、骨はさらされ、土になった。
兵隊さんは1回50銭か1円の切符で列を作り、私たちは洗う暇もなく相手をさせられた。何度、兵隊の首を絞めようと思ったか。半狂乱だった。死ねばジャングルの穴に棄てられ、親元に知らせるすべも無い有様。それを、私は見たのです。この目で。女の地獄を」
1946年3月、城田さんら日本人「慰安婦」の女性たちも引き上げ船で帰国することになりました。「3日間、停泊している間に、ジャングルの中をメガホンで呼びかけたりしてね。大騒ぎして探してくれたの。女の子たち隠れていてね。日本に帰っても恥ずかしくて生きて帰れないって。3日間待ったけれど、とうとう出てこなかった」(城田)といいます。
放送の最後で、城田さんはなぜ「慰安婦」のことを話すのか、このように語っています。
「パラオに帰るときにね、出航するときに雨がざあぁざあぁ降ってきたのね、スコールがね。そんときに私つくづくそう思った。もう、私たちはこうやって生きて帰れたけどね、死んで土に埋もれた人たちは、どこか隠れて出てこない人たちとか、全く、もしかしたら、その人たちが私たちが帰るんで、泣いているんだろうなと思ってね。あのときね、日本に帰る最後の船だったからね、私たちが乗った船が。3日間、パラオの沖にいたのよね。それだけども女の人も出てこないしさぁ、遺骨だってジャングルの中へみんな埋もれさしちゃってさぁ、みんなさみしいんだなぁ、置いていかれてと思ってね・・・・・・」
「私が、今ここで口を開かなかったら、結局、この人たちが死んだのを、私たちが苦労してきた生き甲斐がどこにあるのかしら、あの戦争って何だったんだろうって思うでしょう。もう、とにかくね、早く石にしてやってね、慰めてやりたい」
そして、最後にこう語りました。
「兵隊さんのことだとか、民間の人のことだとか、原爆だとかはみんな言ってるよ。だけど慰安婦だとか、性の提供者だとか、その人たちが大勢死んでいるってことは、一片の慰めも無いし、40年経って今ね、馬鹿やろうっていいたくなっちゃう。ほんとに」
この放送は、城田さんの生の声、本音が聞かれる貴重な記録です。日本人「慰安婦」には、確かに公娼制度下にいた女性が少なくありませんでしたし、貧困のため、募集に応じたケースもありました。しかし、だからといって彼女たちは被害者ではないと言えるでしょうか? 城田さんの告発は私たちにそんな問いを投げかけています。
注
1 城田すず子『マリアの賛歌』日本基督教団出版部 1971年7月 復刊 かにた出版部
「赤線区域の大掃除」 サンデー毎日 1955年9月11日
「天声人語」 朝日新聞 1985年8月19日
深津文雄 『いと小さく貧しい者に』 日本基督教団出版局 1967年
2 上原栄子 『辻の華―くるわのおんなたち』 時事通信社 1976年
上原栄子『辻の華 戦後篇 上』 時事通信社 1989年
上原栄子『辻の華 戦後篇 下』 時事通信社 1989年
3 「いまだ“後遺症”を背負い報われることのない戦争犠牲者たち」『告白!戦争慰安婦が行きた忍従
の 28年』週刊アサヒ芸能 1971年(昭和46年)8月12日号
「太平洋の前線基地トラック島で捧げた19歳の青春ー戦場の芸者・菊丸が26年目に明かす波乱の人生」 『週刊アサヒ芸能』1973年(昭和48年)8月12日号
広田和子(太平洋戦争研究会)「トラック島の従軍慰安婦 芸者『菊丸』」『別冊歴史読本戦記シリーズ第
25巻女性たちの太平洋戦争』新人物往来社 1994年2月24日
広田和子 『証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭』新人物往来社 1975年
4 「告白! 戦争慰安婦が生きてきた忍従の28年ー長く暑い夏に放つ三代ドキュメント いまだ“後遺
症”を背負い報われることのない戦争犠牲者たち」『週刊 アサヒ芸能』 1973年8月12日号
広田和子 『証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭』 新人物往来社 1975年
5 大林清「玉の井娼婦伝 従軍慰安婦第1号順子の場合」『現代』1974.4月号
大林清「玉の井娼婦伝 従軍慰安婦順子の上海慕情」『現代』1974.5月号
6 千田夏光 『従軍慰安婦・慶子』 光文社1981年
7宮下忠子 『思川―山谷に生きた女たち 貧困・性・暴力 もうひとつの戦後女性史』 明石書店