【被害者証言】朴永心(朝鮮民主主義人民共和国)

朴永心(カラー)_s

  • 1921年12月15日~2006年8月7日
  • 朝鮮民主主義人民共和国(平安南道南浦市)
  • 連行年(年齢):1939年8月(17歳)
  • 連行先:中国(南京・拉孟)、ラシオ(ビルマ)

●証言概要:

※女性国際戦犯法廷での証言はこちら

1939年8月、17歳の時に、日本人巡査に「お金が儲かる仕事がある」と騙され、同じ村の娘と一緒に平壌駅に行った注1。その頃、父親の借金返済のかたに洋品店に奉公に出されていた私は、「お金が儲かる」という巡査の言葉に心が動かされてしまったのだ。
平壌駅にはすでに十数名の女性がおり、私たちは憲兵に引き渡され、有蓋貨車に押し込められた。騙されたことに気がついたがもう遅く、憲兵の監視が厳しく、到底逃げることはできなかった。途中トラックに乗り換え、中国の南京市にある日本軍の慰安所「キンスイ楼」に連れて行かれたのだ。
「キンスイ楼」には20数名の朝鮮人の女性(「慰安婦」)がおり、慰安所を管理していたのは日本語の上手な朝鮮人夫婦だった。到着するや私は2階の19号室に入れられ、日本の着物に着替えさせられ、「歌丸」と名付けられた。昼は兵隊が、夜になると将校がやってきた。あまりにも恐ろしくて抵抗したが、日本兵に殴りつけられるだけだった。時には「生意気な女だ」と軍刀で脅され、首に怪我をしたこともあった。今でもその時の傷跡が頸に残っている。それでも初めの頃は何度も抵抗したが、言うことを聞かないからと拷問部屋(屋根裏部屋)に閉じ込められ、食事ももらえず、ひどい暴行を受け、悔しいけれどあの時は言うことを聞くしかなかったのだ。
同じ慰安所に、妊娠した朝鮮人の女性がいた。彼女は慰安所の自分の部屋で出産したが、その後、その女性と生まれてきた赤ちゃんの姿を見ることは二度となかった。彼女たち親子がどうなったのか、誰も知る者はない。

朴永心が入れられた「キンスイ楼」の建物。この建物の2階、写真中央の窓が19号室(2008年6月西野瑠美子撮影)

屋根裏の拷問部屋
(2008年6月西野瑠美子撮影)

1942年初夏、キンスイ楼にいた「慰安婦」22名は楼主に連れられ、上海の港から大きな船に乗せられた。その船には同じような女性が数百名乗っていて、本当に驚いた。船は他の船と一緒に(船団を組んで)南に向かい、何日も何日もかけてようやくビルマのラングーン(現ヤンゴン)に到着した。私たちは船から降ろされると2、30名ずつのグループに分けられ、私はラシオの慰安所「イッカク楼」に連れて行かれた。その慰安所もまた、朝鮮人の女性ばかりだった。皆、「ハルエ」「キヌエ」等の日本名を付けられており、この時から私は「若春」と呼ばれるようになったのだった。
しばらくしたある日、私たちはトラックに乗せられ、日本軍(中国雲南省拉孟に駐屯している第56師団拉孟守備隊)がいる松山(拉孟陣地)に連れて行かれた注3。でこぼこの山道を走り、ようやく着いた高い山の上にある陣地は山の中なのに周りに鉄条網が張り巡らされ、到底逃げ出せるようなところではなかった。そうして、日本兵の相手をさせられる日々が再び始まったのだった。

永心たちが拉孟守備隊に来た頃はまだ中国軍の反撃前であったが、1944年5月に雲南遠征軍が反撃を開始すると、拉孟陣地は包囲され、補給も完全に絶たれた。砲撃により多くの日本兵が死傷し、「慰安婦」たちも日本軍のために各陣地におにぎりを運ぶなど、動員される注2。100日にわたる戦闘中、雨期に見舞われ、アメーバ―赤痢やマラリアでも死傷者が続出し、ついに9月7日、横股陣地に身を潜めていた日本兵は毒薬や手りゅう弾で自決した。ここにいた「慰安婦」も日本兵の自決の巻き沿いになったのである注4。この時、自決を拒み、壕から飛び出して逃れた「慰安婦」たちがいた。その中に、朴永心もいた注5

松山(拉孟陣地)に来てしばらくすると中国軍の爆撃が始まり、陣地は爆撃で壊され、私たちは追い詰められ日本兵と一緒に大きな壕に隠れていたが、ある日、日本兵が自決すると話しているのを聞いて、隙を見て他の3人と一緒に壕を飛び出した。崖を下り、水無川を渡って逃げようとしたが流れが強く、渡れないまま隠れているところを中国軍(雲南遠征軍)に見つかってしまった注6。捉えられた時に私は妊娠していて間もなく生まれそうな大きなお腹をしていたが、激しい動きをしたため出血し、耐えがたい腹痛に襲われていた。中国軍の陸軍病院で治療を受けたが、お腹の子どもは死産だった。仮尋問を受けた後、私たちはトラックで昆明の捕虜収容所に移送されたのだった。

横股陣地の壕で自決した日本兵ら。この中に2名の女性(「慰安婦」)の死体もあった。(米公文書館所蔵)

雲南遠征軍第8軍の将校に尋問を受ける朝鮮人「慰安婦」。(米公文書館所蔵)

中国軍に保護された日本人「慰安婦」。(米公文書館所蔵)

中国軍に保護された日本人「慰安婦」。(米公文書館所蔵)

1945年9月頃、昆明の捕虜収容所にいた私たちは、捕虜の日本兵らと重慶収容所に送られ注7、そこで韓国光復軍に引き取られて、7年ぶりに夢にまで見た朝鮮の故郷に帰ることができた。朝鮮戦争が終わり、縁あって結婚したが、妊娠することはできなかった。しかし、日本軍の「慰安婦」にされたことは夫に話すことはできず、ましてや日本軍の子どもを妊娠したことは誰にも話すまいと強く心に決めていた。その後、夫に先立たれたが、養子をわが子と思い懸命に育てて生きてきた。
1992年に南朝鮮の被害女性が名乗り出たことを知り、翌年、私もこの「恨」を晴らしたいと名乗り出たのだ。

2000年女性国際戦犯法廷の準備中、写真のおなかの大きな女性が自分であると認めた朴永心さん。(撮影:西野瑠美子)

2003年11月、朴永心さんは南京市に残っていたキンスイ楼の建物を確認。2階の19号室に向かう朴永心さん。

2000年女性国際戦犯法廷の判決(概要)に喜ぶ朴永心さん(向かって左)

波乱回顧 松井秀治_s

松井秀治『ビルマ従軍 波乱回顧』

ラウンドアップ

WALTER RUNDLE ”JAP ‘COMFORT GIRLS’”,C.B.I.ROUNDUP,NOVEMBER 30,1944

【注】
注1:連行年の確認は、朴永心が収容された昆明捕虜収容所における朝鮮人と日本人捕虜の尋問データによる。ここにはPak Yong-simについて、「平安南道出身 23歳 1939年8月、朝鮮を出る」とある。
注2:辻政信著『十五対一』には、木下中尉から報告を受けたその時の様子が詳しく記されている。
注3:拉孟陣地に慰安所が開設されたのは拉孟占領のおよそ7カ月後の1942年の暮れである。第56師団第113連隊長松井秀治は慰安所設置に関してこのように回想している。「十七年の暮れも押し詰まった頃、半島人の慰安婦十名が軍の世話で到着した。十八年の夏頃又内地人と半島人合わせて十名が派遣された」(『ビルマ従軍 波乱回顧』松井秀治)
注4:この時の様子について品野実は「雨でビシャビシャになっているコの字型の大きな横穴壕に重症者と慰安婦がはいっている。昇汞錠を重症者と慰安婦にも与えた。重傷者はほとんど飲まず手榴弾で自決したものが多かった」(品野実『異域の鬼』谷沢書房1981年)と記している。
注5:『異域の鬼』にも同様の回想がある。「そのとき、2、3人の慰安婦が飛び出すのが見えた。水無川の方に転げ落ちるようにして逃れた」(品野実『異域の鬼』谷沢書房1981年)。
注6:トップの写真がその時の様子。(詳細は、西野瑠美子『戦場の慰安婦』を参照)
注7:日本人「慰安婦」は1946年6月10日に鹿児島に到着、帰国した。(西野瑠美子『戦場の慰安婦』を参照)

●朴永心さんに関係する公文書や当時の資料、参考文献等
・WALTER RUNDLE ”JAP ‘COMFORT GIRLS’”,C.B.I.ROUNDUP,NOVEMBER 30,1944
・”KOREAN AND JAPANESE PRISONER OF WAR IN WAR IN KUNMING”,28 April.1945連合軍尋問報告書
・西野瑠美子『戦場の「慰安婦」―拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡』明石書店2003年
・アクティブミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ―南・北・在日コリア編上』明石書店2006年
・大田毅『拉孟 玉砕戦場の証言』昭和出版1984年
・辻政信『十五対一』酣燈社1950年
・松井秀治『ビルマ従軍 波乱回顧』興竜会本部1957年
・森山康平『フ―コン・雲南の戦い』月刊沖縄社1984年
・西野瑠美子『従軍慰安婦と十五年戦争』明石書店1993年
・品野実『異域の鬼』谷沢書房1981年      他多数

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