3-2 軍・官憲が暴行脅迫により連行したことはなかったの?

日本軍「慰安婦」問題について安倍晋三首相は、「官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れて行く」という「強制性」はなかった、と言っています(2007年3月5日参議院予算委員会)。また、橋下徹大阪市長も、「慰安婦」が「軍に暴行脅迫を受けて」連れて来られた証拠はないと言っています(2012年8月21日記者会見)。ほんとうにそうでしょうか? 中国・東南アジア・太平洋地域では、軍・官憲が暴行・脅迫により連行した事例が数多く確認されています。代表的なケースをみてみましょう。

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中国の場合

中国については、山西省の盂県でのケースが裁判になり、その具体的な様相は岡山大学の石田米子名誉教授と内田知行大東文化大学教授により、『黄土の村の性暴力』(創土社、2004年)のなかで実態が解明されています。これは現地の日本軍の小部隊が地元の住民を連行し、一定期間監禁・レイプしたケースですが、被害女性からの聞き取りだけでなく、現地の住民の証言も数多く集め、被害の実態を深く解明することに成功しています。

これは三件の裁判になりました。賠償請求は棄却されましたが、裁判所で事実認定がなされています。その概要をみると次のようになります。まず、中国人「慰安婦」損害賠償請求事件の第一次訴訟の東京高裁判決(2004年7月28日)です。東京高裁は、次のように認定しています。

八路軍が1940年8月に行った大規模な反撃作戦により、日本軍北支那方面軍は大損害を被ったが、これに対し、北支那方面軍は、同年から1942年にかけて徹底した掃討、破壊、封鎖作戦を実施し(いわゆる三光作戦)、日本軍構成員による中国人に対する残虐行為も行われることがあった。このような中で、日本軍構成員らによって、駐屯地近くに住む中国人女性(少女も含む。)を強制的に拉致・連行して強し、監禁状態にして連日強を繰り返す行為、いわゆる慰安婦状態にする事件があった。

このように、中国山西省のさんら四名の女性が日本軍部隊に連行され、監禁・強かんされたことを明確に認定しているのです。

次に、第二次訴訟の東京地裁判決(2002年3月29日)と東京高裁判決(2005年3月18日)です。東京地裁は、1942年、日本兵と清郷隊(日本軍に協力した中国人武装組織)が集落を襲撃し、原告である山西省のさんとさんを、暴力的に拉致し、監禁・輪かんした(郭さんはその後二回拉致・監禁・輪かんされた)と認定しています。また、東京高裁は、この認定を踏襲しています。

三番目は、山西省性暴力被害賠償等請求事件の東京地裁判決(2003年4月24日)と東京高裁判決(2005年3月31日)です。東京地裁は、山西省のさんら10人の女性の被害事実について、1940年末から1944年初めにかけての性暴力被害の状況をほぼ原告の主張通りに認定しました。また、東京高裁は、この認定を踏襲しています。

海南島戦時性暴力被害賠償請求事件の東京高裁判決(2009年3月26日)も、八人の女性が日本軍に監禁・強かんされた事件について「軍の力により威圧しあるいは脅迫して自己の性欲を満足させるために凌辱の限りを尽くした」と認定しています。

軍による略取ではありませんが、軍による誘拐のケースについては、東京裁判の判決があります。これは中国の事例について、次のように述べています。

桂林を占領している間、日本軍は強と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。

これは、軍による誘拐と言えます。

インドネシアの場合

インドネシアでは、多くの事例があげられます(以下、「日本占領下オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書報告書」によります。その翻訳は梶村太一郎ほか編『「慰安婦」強制連行』株式会社金曜日、2008年に収録されています)。

代表的なものだけをあげると、まず第一は、スマラン慰安所事件です。これは1944年2月、スマラン近郊の三つの抑留所から、少なくとも24人の女性たちがスマランに連行され、売春を強制されたというものです。その後、逃げだした2人は警官につかまり、連れ戻されます。1人は精神病院に入院させられ、1人は自殺を企てるところまで追い込まれます。1人は妊娠し、中絶手術を受けています。

第二は、マゲラン事件です。1944年1月、ムンチラン抑留所から、日本軍と警察が女性たちを選別し、反対する抑留所住民の暴動を抑圧してマゲランへと連行したケースです。その一部は送り帰され、替わりに「志願者」が送られます。残り13人の女性は、マゲランに連行され、売春を強制されたと記されています。

第三は、1944年4月、憲兵と警察がスマランで約百人の女性を逮捕し、スマランクラブ(軍慰安所)で選定を行ない、20人の女性をスラバヤに移送したケースです。そのうち17人がフローレス島の軍慰安所に移送され、売春を強制された、と記されています。

第四は、1943年8月、シトボンドの憲兵将校と警察が四人のヨーロッパ人女性に出頭を命じたケースです。女性たちはパシール・プチのホテルに連れて行かれて2日間強かんされ、そのうち、2人は自殺を図った、と記されています。

以上は、白人の被害を中心に記述し、また、強制の範囲を非常に狭く取って解釈をしているようですが、それでも、軍が直接手を下した略取に限っても、これだけの事例を実際にあげているのです。
次に、インドネシア人の被害のケースをみてみましょう。1945年3月以降、海軍第二五特別根拠地隊がアンボン島で地元の女性たちを強制連行・強制使役したことを、同隊附の主計将校だった坂部康正さんは、次のように回想しています。

M参謀は……アンボンに東西南北四つのクラブ(慰安所)を設け約100名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とは、マレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、決められた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。(海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会編『滄溟』同会、1983年)

アンボン島で軍による略取があったことは明らかでしょう。

もう一つは、極東国際軍事裁判の証拠資料があります。そのなかから一例をあげると、インドネシアのモア島で指揮官だったある日本陸軍中尉は、セルマタ島とロエアン島の住民が憲兵隊を襲ったとして住民を処刑し、その娘たち5人を強制的に「娼家」に入れたことを認めています。下段に陳述の一部を紹介します。

フィリピンの場合

フィリピンで名乗り出た女性たちの圧倒的多数は軍による略取(監禁・レイプ)のケースでした。代表的な例は、マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんの証言です。大阪大学の藤目ゆき教授がていねいな聞き書きをして、『ある日本軍「慰安婦」の回想』(岩波書店、1995五年)という本にまとめています。これによればヘンソンさんは、道路を歩いていて日本軍に略取され、9カ月間監禁・レイプされています。フィリピンでは、こういうケースが非常に多くあります。

(2014年10月24日更新)

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