3-1 朝鮮では強制連行はなかったの?

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強制とは本人の意思に反して行なわせること

日本軍「慰安婦」問題について、安倍晋三首相は、「官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れて行く」という「強制性」はなかった、と言っています(2007年3月5日参議院予算委員会)。また、橋下徹大阪市長も、「慰安婦」が「軍に暴行脅迫を受けて」連れて来られた証拠はないと言っています(2012年8月21日記者会見)。

安倍首相も橋下市長も、①軍・官憲による、②暴行・脅迫を用いた連行(法律用語では略取)という、二つが重なっていなければ、強制連行ではないと言っているのです。ここに大きなごまかしがあります。

日本軍は、朝鮮・台湾で女性たちを集める時には、業者を選定し、その業者に集めさせました(軍に依頼された総督府が業者を選定する場合もあります)。この業者は、人身売買や誘拐(騙したり、甘言を用いて連行すること)を日常的に行なっていると呼ばれる人たちだったので、彼らは日本軍「慰安婦」を集める場合もしばしば同様の方法を用いました。

これは刑法第二二六条に違反する犯罪で。また、強制とは本人の意思に反してあることを行なわせることですから、誘拐は強制連行になります。人身売買も被害者にとっては経済的強制ですから、強制連行と言うべきでしょう。誘拐や人身売買で連行された女性たちが軍の施設である慰安所に入れられて、軍人の性の相手をさせられたら、強制使役になります。軍の責任は極めて重大です。この単純・明白なことを安倍首相も橋下市長も見ようとしていないのです。

朝鮮・台湾から女性たちが誘拐や人身売買で海外に連れて行かれたという証拠は、被害者の証言以外はないのでしょうか。そんなことはありません。たくさんあります。いくつかあげてみましょう。

国外移送目的誘拐罪

①まず米軍の資料があります。米国戦時情報局心理作戦班が作成した、今では有名な「日本人捕虜尋問報告」第四九号(1944年10月1日)です。「誘拐や人身売買で多数の朝鮮人女性がビルマに連れて来られた」と次のように記録しています。

1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性たちを徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地―シンガポール―における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、300円の前渡し金を受け取った。

これは国外移送目的誘拐罪に該当します。また、200~300円程度の前借金を渡していることから、国外移送目的人身売買罪にも該当します。この米軍の記録では、約700人の朝鮮人女性が騙されて応募し、6カ月から1年間、軍の規則と業者のための役務に拘束された、この期間満了後もこの契約は更新された、と記されています。軍を主とし、業者を従とする犯罪だというほかないでしょう。これを強制連行と言わずに何と言うのでしょうか。

誘拐

②朝鮮人女性が誘拐されてビルマのラングーンの軍慰安所に連れて来られたという記録をみてみましょう。小俣行男元『読売新聞』記者の回想で。1942年にラングーンに朝鮮から40~50人の女性が上陸します。軍慰安所を開設したので、新聞記者たちには特別サービスをするから、と言うので大喜びで彼は慰安所に行きます。ところが実際に小俣さんの相手になった女性は23、24歳の女性で、「公学校」で〔正確には1941年以降、初等学校は朝鮮でも国民学校と呼ばれていた〕先生をしていたと言うのです。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と訊くと、彼女は騙されて連れて来られたと語っているのです。これは誘拐です。

この国民学校の元先生はどうなったのでしょうか。そのまま慰安所に入れられており、解放されていません。連れて行った業者も逮捕されていません。こういう状況がまかり通っていたのです。

誘拐と人身売買

③第三航空軍燃料補給廠の通訳としてシンガポールにいた永瀬隆さんは、次のように語っています。

私は朝鮮人の慰安婦に日本語を三回くらい教えましたが、彼女たちは私が兵隊ではないのを知っていたので、本当のことを話してくれました。

「通訳さん、実は私たちは国を出るとき、シンガポールの食堂でウェイトレスをやれと言われました。そのときにもらった百円は、家族にやって出てきました。そして、シンガポールに着いたら、慰安婦になれと言われたのです。」

彼女たちは私に取りすがるように言いました。しかし、私は一介の通訳として軍の権力に反することは何もできません。彼女たちが気の毒で、なにもそんな嘘までついて連れてこなくてもいいのにと思いました。

これは、誘拐と人身売買が重なっているケースです。

④畑谷好治元憲兵伍長は、中国東北の琿春の軍慰安所に入れられた朝鮮人女性たちの身上調査をしていますが、その時のことを次のように回想しています。

私は少し横道に逸れた質問であったが、「どんな仕事をするのか知っているのか」と聞いてみたところ、ほとんどが、「兵隊さんを慰問するため」「私は歌が上手だから兵隊さんに喜んでもらえる」云々と答え、兵隊に抱かれるのだということをはっきり認識している女は少なかった。……女たちは、慰安所の主人となる者か、あるいは女衒から貰った前借金を親に渡し、また、親が直接受取り、家族承知の上で渡満してきたもので、正当な契約書があったか、否かは定かではなかったが、誰もが例外なく、「早く前借金を返し、お金を貯めて親兄弟に送金するのだ」と語ってくれた。

これも、誘拐と人身売買が重なったケースといえるでしょう。

⑤朝鮮の女性たちが、誘拐か人身売買で連行されたことは秦郁彦さんも認めています。秦さんの著書『慰安婦と戦場の性』(新潮社、1999年)では、彼が「信頼性が高いと判断してえらんだ」元軍人などの証言が九例あげられています。四例が朝鮮人女性のケースですが、三例が誘拐、一例が人身売買です(ほかに日本人女性の誘拐が二例、略取が一例、ビルマでの未遂が一例、シンガポールでの募集が一例)。

そのうち、一つを紹介しますと、鈴木卓四郎元憲兵曹長は、南寧の軍慰安所の若い朝鮮人業者(地主の次男坊だった)から「契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂」と聞いて、地元の小作人の娘を連れて来たと聞いています。この青年は「〈兄さん〉としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった」と述べていますので、業者も騙されたというケースです。なお、朝鮮で軍・官憲による暴行・脅迫を用いた連行(略取)があったかどうかですが、被害者の証言はかなりの数にのぼります。これを裏づける他の文書・記録や証言は今のところ、見つかっていません。しかし、一件もなかったことを証明する証拠もありません。

関特演の時はどうだった?

1941年、対ソ戦準備のために関東軍特種演習(関特演)という名目で、陸軍の大動員が行なわれます。この時、二万人の「慰安婦」を徴募するという計画がたてられ、多数の女性が朝鮮から動員されます。この時集められた人数は、作家の千田夏光さんが原善四郎関東軍参謀から聞いたところでは八千人、関東軍参謀部第三課兵站班にいた村上貞夫さんの証言では三千人くらいだったということです。

そうだとすれば、かつて秦郁彦さんが言っていたように、「結果的には娼婦をふくめ八千人しか集まらなかったが、これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから、道知事→郡守→面長(村長)のルートで割り当てを下へおろしたという。……実状はまさに「半ば勧誘、半ば強制」(金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』)になったと思われ」という事態があった可能性があります。関東軍・朝鮮軍・朝鮮総督府の資料は多くが焼却され、ほとんど残っていませんが、関係者の資料が出れば、はっきりするかもしれません。これは今後の究明を待たなければばなりません。

(2014年10月24日更新)

アメリカ戦時情報局資料

 

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