この問題は、女性の人権という観点を抜きにして考えると(それは大問題なのですが)、かんたんには結論は出しにくい問題ですが、性売買を認めない米国の考え方を紹介しておきましょう。
英文の資料はたくさんあるのですが、幸い、日本の労働省婦人少年局が1952年に翻訳したものがあるので、それを紹介しましょう。これは米国社会衛生協会が1941年に出した『米国に残っている紅燈街―組織的売春街―の撲滅のために』というパンフレットです(『性暴力問題資料集成』第三巻、不二出版、2004年、所収)。ここでいう「紅燈街」というのは、日本の「赤線」、つまり売春公認地区のことを指します(米国の場合は、ほとんどの州で売春を公認していないので、黙認されている売春地区を指すと言えますが)。米国社会衛生協会は米国政府と共同して売春撲滅のキャンペーンを展開していた組織です。
このパンフレットでは、10項目をあげて売春公認を否定する議論をしています(括弧内は引用、ほかは要約です)。
① 「隔離区域は隔離されていない」
売春婦を隔離区域内の閉じ込めていると思っても、実際にはそうではなく、隔離区域内に売春婦が1人いるとすると、区域外には5人がいるのが事実である。
② 「隔離地域は売春婦を増加させる」
「集娼区域は、売春婦の仲介を業とする人のために、あくことない市場を提供し、売春婦のかすりをとって生活している者にとって、理想的な商売の地盤となっています。」 業界は需要拡大しようとし、その結果、「そういうものがなければ決してこの道を歩まなくてもよかった少女を売春婦におちいらせ、又青年たちを娼家の客にしたてているのです。」
③ 「集娼区域は性病培養所」
区域内の売春婦の多くが性病に犯され、客としてくる男たちも感染する。「男女を性病から守る方法として商業化した売春は妥当ではない。」
④ 「検診制度は謝った安全感を与える」
検診で性病が見つからなかったとしても安全だということにはならない。かえって健康証明書が安心感を与えてしまい、性病が広がることになってしまう。
⑤ 「売春は廃止することができる」
(説明省略)
⑥「集娼地区の廃止は娼婦を「拡散」させるという説の誤り」
黙認または公認区域があることによって、逆に「市のいたる所に内緒で売春行為を行っている利口な女達を増やすことになります。」「厳正な法の執行によってこの営業は拡散する代りに廃止されます。」
⑦ 「強姦に対する意見と実際」
「業者はよく、特殊区域をおくことは、良家の子女を困惑や、侮蔑や、強姦から防ぐ方法であるといいます。しかし紅燈街を撲滅した市の実例をよくみてみると、殆んどすべての場合、強姦の数は廃止以前より減少しています。どの場合をみても売春に対する圧迫の結果が、“犯罪の巷”を作り出すようなことはなかったのです。紅燈街は犯罪を少なくすることはありません。それどころか、性的犯罪のみならず、ゆすり、たかり、その他の犯罪や搾取を培養するものです。」
*パンフレットの巻末の表には「性的犯罪を防ぐ」という「売春業者の言い分」に対して、「真相」として、「性的乱交をまし、性的残忍性と堕落を培うことによって性的犯罪を促す」としています。
⑧ 「乱交の問題」
紅燈街を閉鎖し、営利的売春を圧迫すると乱交が増えるという証拠はどこにもない。
⑨ 「諸外国における売春対策」
「事情によく通じていないものや、偏見をもったものによって」フランスの事情がよく引用される(注:売春を公認したい者はフランスを例を挙げるという皮肉ですね)が、「これは大きな誤りです。」「諸国における認可検診制度は大きな失敗であることが、国際連盟の世界的調査によって明らかにされ、ヨーロッパの多くの国の当局筋もこれを認めました。即ち、10~30年前からチェコ、オランダ、スカンジナヴィア諸国、イギリス、スイス等のヨーロッパ諸国は、売春の認可検診の制度を全くやめてしまい、ドイツ、オーストリア、ポーランド、ダンツィヒ、エストニア、フィンランド、ラトビィア、インド、ハンガリーでは、第二次世界大戦前、事実上、これを廃止しました。売春認可、及び検診制度を一度ももったことのない国、あるいはそうした制度の一部又は全部を正式に廃止した国は、アメリカ合衆国、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、キューバ、ウルガイです。これらのすべての国々に於いて、そういう対策によってとりしまり得るのは一部の売春婦だけであること、また検診に対する誤信は性病を防ぐより、拡げることになることが判明したのです。」
⑩ 「組織的売春を擁護する者」
「以上のように、隔離区域、公認売春宿及びその他組織的売春は、性病を拡げ、犯罪を生むものです。それにも拘らずそうした組織的売春業の存続を望むものは、どういう人たちでしょうか。」
パーシング将軍の言葉「この年来の悪と戦う唯一の道はその撤廃である。」
以上がこのパンフレットの要約紹介です。米国の政策の問題もいろいろありますが、売春を公認する方法が世界で当然のこととして考えられていたわけではないことは、はっきりしています。
米軍の性管理政策の歴史的な分析としては、林博史「アメリカ軍の性対策の歴史―1950年代まで」『女性・戦争・人権』(「女性・戦争・人権」学会)7号、行路社、2005年、を挙げておきます。 http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper71.htm
この論文のなかで、米国の陸軍省が1917年に出したSmash The Lineというパンフレットの内容が紹介されています。このパンフレットでは、娼婦を隔離登録し性病検査をおこなう赤線地区方式はかえって売春を拡大すること、医学検査をおこなっているから性病にかかっていないという偽りの安心感をあたえて予防策をとらなくなりかえって性病が拡大すること、定期的な性病検査では性病を見つけることは不十分であり、かりにそこでチェックできてもその後すぐに感染すれば次回の検診まで感染させることを阻めないこと、見境のない性交渉を刺激することにより女性への犯罪を増加させること、地域社会のモラルを悪化させ青少年を誘惑すること、警察の収賄を増加させることなど、問題点を列挙しています。
1917年8月に米国の陸軍長官は、軍施設のある市長や郡長に送った手紙のなかで「基地周辺での赤線地区の存在を陸軍省は容認することはできない。(中略)この問題について唯一の実際的な政策は断固とした禁圧策である」と述べていることも紹介されています。
ここで紹介した米国社会衛生協会のパンフレットの考え方も米軍と同じ考えのものと言えます。