日本軍「慰安婦」=「公娼」ではない
日本軍「慰安婦」被害の存在を否定する人たちの代表的な主張に、次のようなものがあります。
「日本軍に組み込まれた「慰安婦」は“セックス奴隷”ではない。世界中で認可されていたありふれた公娼制度の下で働いていた女性たちであった。慰安婦の多くは佐官どころか将校よりも遙かに高収入であり、慰安婦の待遇は良好であったという証言も多くある。」(『THE FACTS』ワシントン・ポスト、2007年6月14日)
公娼制度というのは、特定の業者と女性たちが売春業を営むことを公認し、警察に登録させる制度のことです。戦前の日本はこの公娼制度を採用していました。つまり、前記の主張は、「慰安婦」は当時公認されていた「売春婦」であったと言っているのです。
しかしこの主張はまちがっています。「慰安婦」=「公娼」ではありません。なぜなら日本軍「慰安婦」にさせられてしまった被害者たちの多くが公娼制度や売買春とはなんの関係もない女性たちだったからです。「慰安婦」被害者たちは日本軍や日本軍に命令された業者たちによって、暴力や詐欺・人身売買などの方法で徴集され、慰安所で軍の管理下で性奴隷状態を強いられたことが明らかだからです。日本軍「慰安婦」にさせられた女性たちは、軍の許可なく「慰安婦」を辞めたり、自由に行動することはできませんでした。このように、後述する公娼とは異なり、軍や軍の命令によって徴集され、軍の管理下で軍の許可なく辞める自由もなく性奴隷状態を強いられた点に、日本軍「慰安婦」の特徴があります。
公娼制度とは何か
では、戦前日本の公娼制度とはどのような制度なのでしょうか。戦前の公娼制度は、近世以来、遊廓や宿場だった地域をはじめとし、特定の地域における特定の業者と女性に売春営業を公認するというものでした。性病まんえん防止という目的で女性たちには性病検査が義務づけられており、この性病防止と強かん防止というのが公娼制度を正当化する論理でした。戦前日本社会では、こうした制度の下で多くの貧困な女性たちが売春をしていたのです。
そこで重要な点は、娼妓をはじめ、芸妓・酌婦などはその稼業につく際、年期を定めて店と契約を結びますが、親が契約の当事者ないしは連帯保証人となり、実質上親が受け取る前借金と呼ばれる借金をすることです。そしてその借金を返済するまで、娘は廃業する自由がほとんどなかったということです。つまり、彼女たちは親に売られたに等しかったのです。
親孝行や「家」のために尽くすことが美徳とされた戦前日本社会の道徳を利用され、彼女たちはこのような状態を強いられていました。しかも彼女たちの売春に対して客が支払った代金のかなりの部分は店の収入となり、彼女のわずかな取り分から借金を返済するので、返済には長期間かかり、途中で借金が増え返済が不可能になることがしばしばありました。きわめて困難な借金の返済が終わるまで、人身の自由なく売春を強要される制度、それが日本の公娼制度でした。その結果、多くの娼妓が重度の性病などの病気にかかって死亡したり、自殺したりしました。
1900年に制定された「娼妓取締規則」では、前借金完済以前にも廃業の自由があることが明記されました(自由廃業)が。しかし、前借金契約は芸娼妓契約とは別の金銭貸借であるとみなされ、その返済義務自体は否定されなかったので、その他の手段で借金を返せる見込みのない娼妓・芸妓・酌婦は、ほとんど廃業の自由なく売春を強要され続けたのです。前借金の貸与は、娘を廃業の自由なく娼妓・芸妓・酌婦として働かせることを目的としていることは明白だったため、身売りの慣習を禁止するには、こうした前借金契約を違法化すべきだったのに、裁判所は遊郭主に有利な判断を下したのです。しかも以上のような非人道的公娼制度は、当時においても人々から「奴隷制度」と呼ばれており、婦女売買禁止の国際的基準からすると、当然廃止しなければならない制度となっていました。
以上からわかるように、公娼制度も性奴隷制度と言っても過言ではない非人道的な制度でした。そして、日本軍「慰安婦」問題を考えるにあたって重要なことは、廃業の自由のない売春生活につけ込まれて「慰安婦」に徴集された女性たちがいたということです。
娼妓・芸妓・酌婦などから「慰安婦」に徴集された事例
実は、娼妓・芸妓・酌婦などの女性たちが、前借金の慣習を利用されて、軍や軍の命令を受けた業者たちに、日本軍「慰安婦」として徴集された事例があります。こうしたケースは今のところ日本人の「慰安婦」にしばしばみられたことがわかっています。つまり、日本軍「慰安婦」は公娼ではないけれども、もともと売春をしていた女性たちのなかから、「慰安婦」に徴集された人たちもいたのです。
たとえば、警察庁関係史料のなかに、1938年初頭、群馬、山形、高知、和歌山、茨城、宮城などの各県内で、神戸や大阪などの貸席業者たちが、上海の陸軍特務機関から依頼されて、酌婦の女性たちを上海派遣軍内陸軍慰安所で働く日本軍「慰安婦」として集めていたことがわかる史料があります。彼らは前借金を支払って女性を集めていました。
また、かつて慰安所担当軍医や慰安所係であった人々の手記からも、公娼制度下の業者たちが慰安所設置や女性の徴集に協力していたことがわかります。たとえば、長沢健一『漢口慰安所』(図書出版社、1983年)、山田清吉『武漢兵站―支那派遣軍慰安係長の手記』(図書出版社、1978年)などでは、大阪や神戸の遊廓の業者やその関係者たちが、軍の命令を受けて漢口の慰安所に女性を連れて出店したことが明記されています。そして、慰安所経営者の経営方法に対して軍部が管理・監督をしていたことが明確に証言されています。
日本軍「慰安婦」被害者の女性たちの残した証言からも、娼妓・芸妓・酌婦などの女性たちが軍によって「慰安婦」に徴集された事例が明らかです。代表的なものとして、千田夏光『従軍慰安婦』(双葉社、1973年)、同『従軍慰安婦・慶子』(光文社、1981年)、城田すず子『マリヤの賛歌』(日本基督教団出版局、1971年)。たとえば、1925年に生まれ、貧困のため子どものころ東京の芸者置屋に300円の前借金で売られ、「菊丸」という名で芸者をしていた山内馨子さんは、置屋の借金を軍が肩代わりしてくれると聞いて「慰安婦」になることを決め、1942年3月、「トラック島」に渡っています。彼女の借金は4000円に上っており、返済の見込みがなかったからです。「死んだら靖国神社に入れてもらえる」「お国のために役立てる」と考えたことも「慰安婦」徴集に応じた理由でした。
このように、芸妓・娼妓・酌婦だった女性たちが「慰安婦」になるケースがあったのです。ただし、ここで強調しておきたいことは、もともと「売春婦」だった女性が「慰安婦」になったからといって、性奴隷でないことにはならないということです。なぜなら、すでに述べたように、戦前日本で売春をしていた女性たち、つまり娼妓・芸妓・酌婦自体が、本来ならば許されないはずである、廃業の自由のほとんどない性奴隷状態に置かれていたからです。廃業できる見込みのない状態に置かれ、世間からさげすまれていた彼女たちから見れば、その状態から抜け出すために、軍が借金を肩代わりしてくれる、「お国のために役立てる」という条件は魅力的に映ったことでしょう。実際には彼女たちは死んでも靖国神社には入れてもらえず、生きて帰って来ることができても「慰安婦」だった過去がわかると世間からさげすまれ、苦難の戦後を送らざるを得ませんでした。つまり、日本軍やその命令を受けた業者たちは、彼女たちの苦しい境遇につけこんで日本軍「慰安婦」に動員し、いいように利用したあげくに捨てたのです。
このように、日本軍「慰安婦」制度は公娼制度とは別物ですが、性奴隷制度という点で関係があったのです。したがって、私たちは「「慰安婦」=「公娼」だから性奴隷ではない」と言っている人々の無知と人権意識の低さを問題にしてゆかなければなりません。
(2014年10月24日更新)