日本政府は、2021年4月27日に「政府としては、「従軍慰安婦」という用語を用いることは誤解を招くおそれがあることから、「従軍慰安婦」又は「いわゆる従軍慰安婦」ではなく、単に「慰安婦」という用語を用いることが適切であると考えており、近年、これを用いているところである」との答弁書を閣議決定した。また、同日、戦時期の朝鮮人労働動員(「徴用工」問題)について、「強制連行」「強制労働」という表現は適切ではないとする答弁書を閣議決定した。これらの日本政府の閣議決定の問題点は、以下の4つである。
第1に、根本的な問題として、歴史の解釈と用語をときの政権の都合で閣議決定することは、歴史事実の軽視であり危険である。
第2に日本軍「慰安婦」制度が女性たちの意に反して強制的におこなわれてきた事実を否定する意図から、「従軍」という用語を外すべきだとしていることである。歴史研究の成果を踏まえれば、日本軍「慰安婦」制度における本人の意思に反した強制連行は否定できない事実である。ここで言う強制連行とは暴行・脅迫を伴う連行(略取)だけではなく、誘拐や人身売買などそのかたちはさまざまであるが、それらはどれも日本軍や日本国家の責任となるものであった。また、日本軍「慰安婦」制度における強制とは、「連行」時に限定されるものではなく、「慰安所」において女性たちが性奴隷状態とされたことは見逃せない。「強制連行」だけに焦点を当てるのは問題である。
なお、今回の閣議決定において、日本政府は1993年に河野洋平官房長官(当時)が発表した「河野談話」を継承するとしている。「河野談話」は、「軍の要請を受けた業者が主としてこれ(「慰安婦」の募集)に当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」と連行時における強制性を認定している。また、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」と述べている。強制性を否定する意図から「従軍」との用語を外すことは、「河野談話」からも後退することを意味する。
第3の問題点は、「従軍」という用語を外すことが、日本軍の存在と責任を抹殺する意図からおこなわれているということである。歴史研究の成果を踏まえれば、「慰安婦」制度は日本軍が立案・管理・統制したものであり、その責任は日本軍と日本国家にある。単に「慰安婦」と呼ぶことは、「慰安婦」制度において日本軍が主体となっていたことを覆い隠すものである。
前述の「河野談話」は、「従軍慰安婦」問題への「軍の関与」を認定し、そのうえで「いわゆる従軍慰安婦」との用語を用いている。この事実認定は不十分であり、「日本軍が主体であった」と記すべきであるものの、今回の閣議決定はこの点でも「河野談話」の立場から後退したものである。
第4の問題点は、本人の意思に反して強制的におこなわれた朝鮮人労働動員の実態を隠蔽しようとしている点である。歴史研究の成果を踏まえれば、朝鮮人に対して民族差別を伴う強制連行・強制労働がおこなわれたことは明白な事実であり、これらの用語を用いることは当然である。また、閣議決定は朝鮮人労働動員が「強制労働に関する条約」における強制労働には該当しないとしている。しかし、動員の過酷な実態や、1999年に国際労働機関(ILO)の条約勧告適用専門家委員会が朝鮮人労働動員は同条約違反であったとの見解を示していることを踏まえれば、強制労働を否定する日本政府の主張には説得性がない。
上記の閣議決定以降、教科書の「従軍慰安婦」や「強制連行」記述などへの攻撃が強められている。5月12日の衆院文部科学委員会で、萩生田光一文部科学大臣は「教科書検定基準」(2014年改正)に基づき「今年度の教科書検定より、教科用図書検定調査審議会において、当該政府の統一的な見解を踏まえた検定を行」うと答弁した。また、同委員会で文部科学省は、政府の統一的な見解を踏まえずに「従軍慰安婦」などの用語が使用される場合は、「児童生徒が学習する上に支障を生ずるおそれのある記載に該当する」(教科用図書検定規則)とし「教科書発行者が訂正申請を行わなければならない」と述べた。そして、教科書発行者が申請を行わない場合、申請を勧告する可能性を否定しなかった。
こうしたなかで、文部科学省教科書課は5月18日、中学社会、高校地理歴史、公民科の教科書を発行する20社近くの編集担当役員らを対象に、オンライン説明会を開催したことが報道された。説明会では、上記の国会での答弁を踏まえ、上記の閣議決定の内容などを説明したという。「主なスケジュール」と題した資料も示し、「6月末まで (必要に応じ)訂正申請」「7月頃 教科用図書検定調査審議会」「8月頃 訂正申請承認」という日程も伝えられたとされる。教科書会社側の関係者によると同省は文部科学大臣による訂正勧告の可能性にも言及したという(『朝日新聞』2021年6月18日付)。これは、文部科学省が直接教科書会社に対して圧力をかけ、日本軍の存在と責任を消そうとするものである。
日本軍「慰安婦」制度は、日本軍・日本国家によっておこなわれた性差別・民族差別・階級差別に基づく重大な人権侵害である。日本政府が閣議決定した答弁書は、明らかに「河野談話」からの後退であり、日本軍「慰安婦」問題における日本軍・日本国家の責任を否定しようとするものである。「強制連行」「強制労働」を否定することもまた、日本国家の深刻な人権侵害とその責任を抹殺する行為に他ならない。そして、これらの「政府の統一的見解」を教科書に反映させようとすることは、国家権力による教科書内容への不当な介入であり、到底看過できない。
2021年7月8日
Fight for Justice(日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会