【被害者証言】ヤン・ラフ=オハーン(オランダ)

オハーン(イラスト)_s

  • ジャワ島で生まれる。
  • 連行年(年齢):1944年2月(21歳)
  • 連行先:インドネシア アンバラワ 第六抑留所

●証言概要

楽しかった子ども時代

私はインドネシアのジャワ島で生まれました。そこでの暮らしは大変素晴らしいもので、家族はとても愛情に満ちていました。信仰深く育てられ、日本が侵攻してきた時、私はスマランにあるフランシスコ修道会の教員養成大学の最終学年でした。

抑留所は、とても人が住めるようなところではありませんでした

1942年3月1日、日本軍が上陸したその日を境に、私の人生は粉々に打ち砕かれました。日本軍が侵攻してきてまもなく、すべてのオランダ人は、日本軍の収容所に入れられました。私たち家族も家から連れ出され、日本軍のトラックでアンバラワに連れていかれました。

抑留所は男女別々で、女性と子どもは一緒でした。私は中部ジャワのアンバラワ第六抑留所に入れられました。200、300人用の兵舎に、数千人の女性と子どもが収容されたのです。

そこは、とても人が住めるような所ではありませんでした。 床は、ネズミやシラミ、南京虫で一杯でした。屋根は雨漏りがしていました。食事は大変質素で、衛生状態はひどいものでした。トイレはすぐに一杯になるので、私たちはバケツで汲み出して捨てに行かねばなりませんでした。

抑留所は周りを有刺鉄線で囲まれ、日本人の歩哨が立っていました。逃げることもできず、多くの女性と子どもが飢えのため、あるいはマラリアや赤痢などの病気で死にました。

整列させられ選び出されました

1944年2月のことです。ある日、日本人の役人が私たちの抑留所に来て名簿を作り、17歳から28歳までの女性は皆、登録されました。なぜ、若い女の子たちばかりなのか、私たちはその理由が分からず、怪しみました。 2、3日経って、位の高い将校を乗せた軍の車がやってきて、私たち17歳から28歳までの女性は皆、フェンスを巡らせた広場に行くように命令されました。私たちは整列させられ、そこで軍人は私たちの選別作業を行ったのです。

彼らは明らかに、かわいい女性を選ぼうとしていました。彼らはいやらしい目で私たちを見つめ、私たちの脚を眺めました。私たちの顔を見るために、棒で私たちの顎を突き上げました。彼らは互いにくすくす笑ったり、あざ笑ったりしていました。

何人かが列から外れるように言われ、列の残っているものは次第に少なくなりました。最後に残ったのは、10名ほどでした。その時、私たちは全身、恐怖で一杯でした。

私たちはわずかな持物をまとめるように言われ、トラックに乗せられました。母をはじめ収容所の人は皆抗議しましたが無駄でした。トラックはスマランの丘陵地帯を走り、カナリーランド通りにあるトラッフルトレインのある家の前で止まり、7人の女性はそこで降りるように言われたのです。

日本名をつけられ写真を撮られ・・・

その家も、周りを有刺鉄線と塀で囲まれていました。中に入ると軍人は、お前たちはこれから日本兵のために性的サービスをするのだと言いました。私たちは皆、処女でした。軍人に抗議し、サインを迫られましたが、頑として拒否しました。おそらく同意書を取ろうとしていたのだと思います。私たちは拒否したので、何度も何度も、頭がくらくらして立てなくなるまで殴られました。それでも決してサインはしませんでした。

私たちは写真を撮られ、軍人はベランダのボードに私たちの顔写真を張り出し、その下に名札を下げました。私たちは日本名(どれも花の名前)をつけられたのです。自分に何という名前ががつけられたか覚えていません。思い出したくありません。

私たちはダイニングルームで互いに体を寄せ合ってふるえていましたが、私たちは日本兵に引きずり出され、ベッドルームに連れていかれました。私を連れて行った軍人は大きく太っているはげ頭の男で、日本刀を持っていて高位の将校のようでした。私は彼を蹴って抵抗しましたが、無駄でした。その後は一晩中、沢山の日本兵に強かんされたのです。

それから3カ月、昼も夜も強かんされる日々が続きました。中には自殺をしようとした女性もいました。日本兵はお金を支払っているようでしたが、私たちはどんな支払いも受け取っていません。

解放されても辛い日々が待っていました

ある日突然、荷物をまとめるように言われました。私はここよりももっとひどいところに連れていかれるのではないかと思いました。私たちは丸2日汽車に乗り、西ジャワのボゴールに着きました。そこで隔離収容所に入れられたのは、ジャワ、多くはスマランから連れてこられた、私と同じような目にあった女性たちでした。

戦争が終わって私たちは解放されましたが、私たちは「日本の売春婦」と呼ばれ、沈黙せざるを得ませんでした。辛い日々でした。何が起きたのかを話したのは一度だけ、母に話しただけです。

私たちは大きな恥辱感を持って生きてきました。悪夢にうなされ、眠れない夜が続きました。私たちにとって、戦争は終わっていないのです。

*女性国際戦犯法廷等の証言をもとに、まとめたものです。
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