【元日本兵】金子安次

金子安次(イラスト)_s

  • 1920年1月28日生まれ
  • 1940年11月  北支那方面軍独立混成第一〇旅団四四大隊第一中隊に入隊
  • 1941年4月 中国山東省菜蕪県に進駐
  • 1942年6月~ 第五九師団四四大隊重機関銃中隊に編入 山東省東昌
  • 臨清県に進駐。最終の地位は伍長。
  • 1945年10月 北朝鮮に移動後、シベリアに抑留
  • 1950年7月 中国の撫順戦犯管理所に収容
  • 1956年7月 不起訴で帰国

●証言概要
*金子安次氏は、2000年に開かれた女性国際戦犯法廷で証言した。以下はその時の証言概要を整理したものである。映像はこちら

巡回「慰安婦」の警備

昭和17年当時、私は山東省の東昌というところにいました。その時に中隊から、巡回「慰安婦」の移動を警備しろという命令を受けました。そして機関銃中隊から少尉以下9名、機関銃を持って大隊本部にまいりました。その時すでに小銃隊が15名ほどおりまして、2台のトラックに分かれて乗りました。私たちが二番目のトラックに乗ると、そこに絣の着物を着た「従軍慰安婦」の方が3名おりました。敵地区をまわるので、八路軍に襲撃される恐れがあるからまずいということで、携帯用の外套を(彼女たちの服の)上から着せました。そして、軍帽をかぶせました。
その車中で古い兵隊が、「俺はお前たちのために警備して送るんだが、もしも途中で八路軍に襲撃を受けて戦死したらこんなに恥ずかしい話はないよ」と、「慰安婦」の人に言ったんです。そうすると「慰安婦」の1人の方が、「だったらやめたらいいでしょう」と言いました。すると彼は、「バカヤロウ! 俺は勝手に来ているんじゃないんだ。命令で来ているんだ。そんな勝手なことができるか!」と言いましたが、それに対して「慰安婦」の方は、「あたしだって何も好き好んでこんな危ないところに来ませんよ。軍隊の偉い人のおかげでここに来ているんですよ」と言いました。

慰安所体験

私が一番最初に慰安所に入ったのは、昭和18年でした。臨清県というところにいた時のことです。当時私たちは慰安所とは呼びませんでした。「ピー屋」と呼んでいたのです。そこにまいりました。
そこには女の人が4人いました。女の方が「いらっしゃい」と言いました。すべて朝鮮人の方だという話でした。ところが日本語が大変うまいのです。私は、「おまえ、朝鮮人か?」と、聞きました。ところが、「ちがうわよ。私は日本人よ」というのです。それで私は、「なに、日本人? 大和撫子がこんなところにいるなんて、日本人の恥さらしだ!」というようなことで、口論になりました。それで、私は払ったお金をふいにしてしまったんです。
このようないきさつがありましたが、その時彼女はこう言いました。
「兵隊さん、私は好き好んでこんなところにいるんじゃないんですよ。夫は上海事変で戦死しました。2人の子どもと母親をかかえてどうやって生きていけばいいんですか!」
私は二の句も告げずに立ち去りました。
女性たちは自分の意思で来ていたのではありません。日本には公娼制度というのがあり、それは営業であり金儲けです。しかし、そこで働いている人は、みんな苦しいから働いているんです。金で縛られているから自由に行動できない。そこに、「慰安婦」の「慰安婦」らしいところがあるんです。

慰安所は強かん防止に役立っていたか?

役立っていません。なぜかと言うと、慰安所に行って1円50銭払うんだったら、強かんはタダです。われわれの月給というのは、だいたい一等兵で8円80銭くらい。上等兵で11円くらい。その中から強制的に貯金をさせられるんです。ですから金があまりありませんでした。1円50銭払うんだったら、作戦に行って強かんした方がタダだというような考えがありました。
私も強かんに加わったことがあります。昭和18年に作戦にまいりましたが、その時にある部落で若い兵隊が1人の若い女性を連れてきました。21、22歳くらいでしょうか。それを、6人の兵隊でくじ引きで順番を決めて、1人1人、その女を強かんしました。こういう事実がございました。

強かんについて、軍隊はどのような指示を出していたか?

昭和14年から15年、当時日本では「産めよ 増やせよ」というスローガンがありました。男の子が生まれたなら労働力にも戦力にもなる。女の子だったら、将来のいわゆる(戦力の)再生産になる。だから子どもをどんどん産みなさい。そうすれば日本はどんどん栄える。こういうスローガンがありました。だからそのつもりで戦地に行きました。ところが戦地では命令がくるっと変わりました。中国の女は殺せ、子どもを産むから殺せ。子どもが大きくなったらわれわれに反抗するから、子どもも殺せ。そのように、上官の命令がくるりと変わったんです。
そういうことですから、どうせ殺すのならどんどん強かんしてもいい、そういう考えで、私たちは強かんしました。

なぜ、強かんしたのか?

強かんについてですが、陸軍刑法では強かんは7年以上の刑、現場にいただけでも4年以上の刑罰になると聞いていました。なのになぜ私たちが強かんしたかというと、確かに金の問題もありますが、それだけではありません。現在、私たちは中国人と言っていますが、当時は「支那人」、あるいは差別的に「チャンコロ」と言っていました。「チャンコロの女を殺して何が悪いんだ。どっちみち殺すんじゃないか」という気持ちを持って強かんしたわけです。したがいまして、中隊長あるいは大隊長でも自分の部下が、たとえ強かん罪を犯しても陸軍刑法を持ち出さない。(軍法会議にかけられたら、上官の教育が悪いとして)自分の功績に関係しますから。そしてもう1つは、「チャンコロ」だという劣等視があるんです。だからわれわれ兵隊はできうる限り強かんをしたんです。

なぜ、このような証言をするのか?

正直なことを言いますと、私も自分の妻や娘にこういうことは一切話しておりません。実際、できないんです。しかしながら、私たちがやったことについて、どれだけ中国人民が泣いていたのかということを、私たちは撫順の戦犯管理所でしみじみと分かったんです。これからは二度とこういうことを起こしてはならない。これを止めるのは、現在残されている私たちしかいないんだ。こういう気持ちから、この問題を皆さんに聞いてもらいたいと思いました。

「昭和天皇有罪」の判決概要に喜ぶ被害女性たち
(2000.12.8 女性国際戦犯法廷 日本青年館にて)

●参考文献
・VAWW-NETジャパン編『女性国際戦犯法廷の全記録Ⅰ』緑風出版2002年
・金子安次「『慰安所』は強かん防止に役立たなかった」『季刊 中帰連』15号2000年12月
・アクテイブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『中学生のための「慰安婦」展』(特別展パンフレット)
・熊谷伸一郎『金子さんの戦争』リトルモア2005年

目次