「慰安婦急募」広告のわな - 読み書きできない朝鮮人女性の応募はありえない
秦郁彦さんは「慰安婦」の強制性を否定する論者の一人ですが、著書で「新聞広告などで公募していた事例もいくつか見つかっている」として、『京城日報』1944年7月26日の募集広告「慰安婦至急大募集…今井紹介所」(【図1】)、『毎日新報』1944年10月27日付の「『軍』慰安婦急募…(許氏)」の募集広告(【図2】)、さらに満州日日新聞、昭南日報(華字)の募集広告例を示し、「名乗り出た元慰安婦の身の上話で公募に応じた事例はないが、応募者は意外に多かった可能性もある」と述べています(傍点引用者)。
【図1】『京城日報』1944年7月26日の広告 |
【図2】『毎日新報』1944年10月27日の広告 |
図が示すように、広告は【図1】が漢字+日本文字、【図2】は漢字+ハングルで書かれ、難しい漢字が多く、読み解くには高い識字能力が要求されます。しかし秦さんは、朝鮮人女性が、自ら「(証言で)公募に応じた事例がない」と述べる一方で、1944年の時点で、新聞の「慰安婦急募」広告を読んで応募した事例が「意外に多かった可能性もある」と根拠なく推測するという矛盾を犯しています。しかもこの秦さんの憶測的説明が、まるで自発的応募の証拠であるかのように一人歩きして、日本の歴史修正主義者の一部に広がっています。
しかし、これらは事実にもとづかない虚偽情報です。自発的に応募するには、文字を読み書きできる上に、新聞を日常的に読むことが前提になりますが、植民地支配下の朝鮮人女性、とりわけ「慰安婦」にされた女性のほとんどは学校に入学できなかったため、漢字や日本文字、ハングルの読み書きができなかったからです。文字を読み書きできない女性たちが、「慰安婦急募」広告を読んで応募することはありえません。
植民地下で教育機会を奪われた朝鮮人女性たち
朝鮮人女性が読み書きできなかったのは、植民地教育政策が関係します(6-6参照)。植民地朝鮮には植民者の日本人も居住していた(1920年約35万人、1942年約75万人)ので、日本人児童と比較しながらみてみましょう。
まず、学校に通うには、高額の授業料が必要でした。日本とちがって朝鮮では、授業料原則無料の義務教育制が導入されなかったからです。1920年代には、経済的に優位な在朝日本人児童(小学校)に比べ、朝鮮人児童(普通学校)は高額の授業料が毎月徴収され(それぞれ「50銭以内」、「1円以内」)、朝鮮人への就学が政策的に抑えられていました。1930年当時、在朝日本人の就学率は99%と実態的に義務教育制の下にあったのに対して、朝鮮人の就学率(推計)は17.3%でした(呉成哲さんによる)。
次に、朝鮮人女性に対して、朝鮮社会も、朝鮮総督府(植民地朝鮮の統治機構)も「学校教育は不要」という考え方が根強かったことです。前記の就学率でも、男子28.0%、女子6.2%でした。
【図3】は、学校に入学しなかった朝鮮人女性の比率(=「完全不就学率」、金富子さんによる)です。ほとんどの朝鮮人女性が学校に行けなかったことが一目瞭然です。この傾向は日中全面戦争(1937年7月)後に変化しますが、植民地末期である1940年代でも、学齢期の朝鮮人男児の3人に1人、女児の3人に2人は「完全不就学」でした。
【図3】公立普通学校への朝鮮人女子の「完全不就学率」
出典:金 富子(2005)
注:「完全不就学率」とは学校に入学したことがない者の比率を示す。
読み書きできなかった元「慰安婦」たち
以上のことを朝鮮人元「慰安婦」のケースから見ましょう。「慰安婦」が大量に戦争動員されたのは、日中全面戦争以降です。朝鮮人「慰安婦」のほとんどは未成年なので、1920年代以降に生まれ、1920年代後半〜1930年代前半に学齢に達しました。ところが先にみたように、1930年の朝鮮人女子の就学率は7%以下です。10%以上になるのは、1935年前後からです。ほとんどが学校に行けなかったのです(下段の参照)。
これは被害者たちの証言からも裏付けられます(『証言』参照)1 。
では、なぜ学校に行けなかったのでしょうか。まず当時の総督府が、朝鮮人女性の学校教育を放置していました(1938年以降に多少変化)。文必琪さん(1925年生まれ)は、父により「女が勉強すると狐になる」といわれ学校入学5日目に退学させられました。また貧困による不就学の例が少なくありません。日本人地主の下で働く小作農出身の朴永心さん(1921年生まれ)は、「家族が食べていくだけで精一杯の貧しい暮らし」で「学校にさえ通わせてもらえなかった」と語っています。
こうして学校不就学・非識字の少女たちは、無防備なまま植民地社会に放り出されました。「日本の工場に仕事がある」と騙された金順徳さん(1921年生まれ)は、「学校にも通ったことのない私は本当に世間知らずだったのです。工場に金儲けに行くのだとばかり考えて、それが危険なことだとは夢にも思いませんでした」と語っています。文必琪さんのように、「勉強もできてお金も儲かる所に行かせてあげる」という甘言に騙されたケースもありました。
読み書きは、植民地解放後に被害を訴える際にも大きな意味をもちました。李英淑は「…私がもっと勉強してたら、こうなってなかった。…学がないからどうすることもできないよ…」。ドキュメンタリー映画『ナヌムの家』(1995年、監督ピョン・ヨンジュ)で、こう語っています。
「慰安婦急募」広告は業者向け、総督府の黙認の証拠
以上のように、読み書きできない朝鮮人女性が、新聞を開き「慰安婦募集」広告を見つけ出し、難しい漢字だらけの広告を読むことはありえません。当時の新聞の普及率の低さからも、貧困に苦しむ彼女たちが新聞を読む日常生活を送っていたとは考えられません。しかも朝鮮人がつくった『東亜日報』『朝鮮日報』等は1940年に廃刊され、1940年代に生き残ったのは、【図1】【図2】の『毎日新報』『京城日報』など総督府の御用新聞だけでした。
したがって、吉見義明さんが述べるように、これら御用新聞に出された広告から読み取れるのは、広告主は軍が選定した募集業者であること、対象は朝鮮人女性ではなく人身売買業者であることです。すなわち、朝鮮総督府が「慰安婦」募集、つまり国外移送目的の人身売買と誘拐=犯罪を黙認した証拠ということです。秦さんや歴史修正主義者たちは、ただちに冒頭の虚偽情報を撤回すべきです。
- これは次の証言からも裏づけられています(『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ』参照)。証言をした被害女性のなかで、初等教育学校を修了したのは姜徳景さん(1929年生まれ)ぐらいでした。公立学校以外の教育機関、たとえばキリスト教系私立学校(無料)に通った金学順さん(1924年生まれ)などがいますが、朴頭理さん(1924年生まれ)は「学校には一度も行ったことがありません。あの頃学校に行けた女の子は、私たちの村にはほとんどいませんでした。私は今でも字をまったく読めません」と語っています。
Fight for JusticeQ&A「日本は朝鮮に教育と文字を広めたのか?」
http://fightforjustice.info/?page_id=9411
呉成哲『植民地初等教育の形成』(ハングル)ソウル:教育科学社、2000年
女たちの戦争と平和資料館編『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ南・北・在日コリア編 上・下』明石書店、2006年、2010年
金富子『植民地期朝鮮の教育とジェンダー』世織書房、2005年
秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮選書、1999年
吉見義明『日本軍「慰安婦」制度とは何か』岩波ブックレット