【名乗り出の経緯】中国

性暴力被害がとされた時代

1931年の満州事変から日本の敗戦までの15年に及ぶ日中戦争では、中国全土で日本軍による膨大な数の住民虐殺と強かんが発生しました。とりわけ1937年の南京大虐殺では別名「南京大強かん」と呼ばれるほどに強かん事件が頻発し、中国人の反日感情と国際社会の批判が高まりました。これを憂慮した日本軍は、強かん防止と性病予防のために慰安所を設けました。当時日本の植民地だった朝鮮半島や台湾、日本、中国の女性たちを「慰安婦」とし、戦場の最前線や激戦地には占領した村々から女性たちを拉致・監禁して兵士のための「強かん所」としました。

日本軍による戦争犯罪の調査は日本の敗戦前から始まり、戦場強かんと「慰安婦」制度は国民政府や中華人民共和国政府の戦犯裁判でも、東京裁判でも一部しか裁かれませんでした。記録に残っている性暴力事件は、日本兵に強かんされ抵抗して殺されたケースなどに限られました。性暴力被害は国家、民族、村落、家族の“恥”とみなされ、被害女性は長い間、沈黙するしかありませんでした。

アジアの被害女性とともに立ち上がった中国の女性たち

1991年、韓国の「慰安婦」被害者、金学順さんが名乗り出て日本政府に謝罪と賠償を求める裁判を始めたことを機に、アジア各国で被害女性が次々と名乗り出ました。山西省盂県の小学校教師・張双兵さんは1982年から被害女性(この地域では敬意をこめておばあさん=「大娘」と呼ばれている)の一人、侯冬娥さんを支えてきたことから、1992年の「戦後補償に関する国際公聴会」(東京)に侯冬娥さんと万愛花さんの参加を勧めました。侯さんは体調悪化で参加できませんでしたが、万さんが中国人女性として世界に向けて初の被害証言を行いました。張双兵さんの調査は今でも続けられ、貴重な事実を発掘してきました。

1995年、96年からは山西省盂県の進圭社村で被害にあった劉面換さんたち6人の原告による中国人「慰安婦」裁判が、1998年からは万愛花さんたち10人の原告による山西省性暴力被害者裁判が始まり、日本の弁護団や支援団体によって被害実態が明らかになってきました。1996年から始まった支援団体による現地での聞き取り調査や文献資料の発掘は現在まで続けられており、多面的な被害状況の解明が進んでいます。

2001年からは海南島の被害女性、陳亜扁さんたち8人を原告とする裁判も始まりました。これらは最高裁で、「除斥期間」「国家無答責」「日中共同声明による放棄」などによって請求が棄却されましたが、日本軍の残虐な性暴力や拉致・強制連行の事実、被害者のPTSD(心的外傷後ストレス障害)などは認定されています。また「立法的、行政的な解決が望まれる」とした異例の付言も出ました。

2000年12月に東京で開かれた「女性国際戦犯法廷」では山西省、南京、上海の被害女性が証言台に立ち、検事団は中国各地での被害を告発しました。その準備を兼ねて2000年3月、中国で初の「慰安婦」問題国際シンポジウムが上海で開催された時には、中国のメディアや研究者が殺到し、日本軍による性暴力被害への関心が高まりました。各地で被害調査や慰安所跡の保存運動が行われるようになり、2007年には上海師範大学に「中国『慰安婦』資料館」が開館。また2010年秋には雲南省竜陵県董家溝に「慰安婦制度犯罪展覧館」が完成しました。桂林や南京からも被害女性が名乗り出ています。

2006年からは康健弁護士らの中国人元「慰安婦」被害事実調査委員会による調査が行われてきました。第1次報告(2007年7月)では生存者は山西省の4県には16人、海南省に1人と発表され、第2次報告(2008年12月)では広西チワン族自治区と海南省で各1人の被害者が確認されました。「慰安婦」について自供した日本軍人33人の供述書からは、「慰安婦」の数は1700人余りにのぼったとされ、第3次報告(2009年12月)では北京、山西省、黒竜江省などで32ヵ所の「慰安所」と358人の被害者の存在が公表されています。

被害女性の人生と闘いが変えていく中国人の意識

日本の市民による大娘たちへの裁判支援や医療支援が行われてきた山西省では、2000年代半ば頃から地方政府による生活支援や民間の支援カンパ活動が始まり、地元の学生たちが日本の市民団体と共に大娘を訪ねる動きも出てきました。2012年6月に万愛花さんの病状が悪化し、援助金不足で治療が危ぶまれるという報道がネットでも反響を呼び、全国から多くの寄付金が集まっています。

しかし日本での裁判が敗訴に終わって、大娘たちは健康を害するほどに落胆しました。そこで長年、大娘を支援してきた「山西省・明らかにする会」などの日本の市民団体と個人は、2007年からアクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)で開催された中国展のパネルを中国語に訳して、中国でのパネル展に取り組むようになりました。大娘たちの闘いとその人生を中国の人々に広く伝え、とりわけ次の世代に語り継がれることを願った企画です。これは2年間の準備期間を経て、山西省武郷の八路軍紀念館を皮切りに(2009年11月から1年半)、北京・盧溝橋の中国人民抗日戦争紀念館(2011年8月~)、西安市の陝西師範大学(2011年10月~)、広州のフェミニストたちの自主企画(2011年12月~)、南京師範大学(2012年11月)などで開催されました。このパネル展開催を希望する博物館や大学はその後も絶えず、予想以上に大規模な展開になってきました。

しかし名乗り出て裁判を闘った被害女性( )人は、2013年4月現在では( )人だけになってしまいました。どの人も高齢のため病気がちですが、日本政府に謝罪と賠償を求める気持ちに変わりはありません。そして何より忘れてはならないのは、大娘たちの尊厳回復の闘いこそが、中国の人びとの意識を少しずつ変えているという事実です。性暴力の問題を「民族の恥」や「国恥」とせず、このようにみなしてきた社会と人々の意識を問い直し、被害女性の勇気を称える若い世代やフェミニストたちが現れてきました。と同時に、この問題への取り組みには消極的だった大娘たちの家族、とりわけ次世代の娘さんたちが積極的な姿勢を見せるようになりました。中国社会の自分たちの問題として向き合っていこうという機運が出てきたことに、大きな希望が感じられます。

裁判入廷写真

1998年10月、万愛花さんたち10人の原告は日本政府に謝罪と賠償を求める裁判を起こした。写真は東京地方裁判所へ入廷する時の原告団と弁護団。
この裁判は2005年11月に最高裁で上告が棄却され敗訴になったが、高裁判決では事実認定され、日本軍による加害行為を「著しく常軌を逸した野蛮な行為」と断定し、立法的・行政的な解決が望まれるという異例の付言が確認された。

池田テープカット_modified_s

山西省武郷の八路軍紀念館では2009年11月から2011年5月まで、1年半にわたって「日本軍性暴力パネル展」を開催し、18万人以上の来館者があった。この展示は歴史研究者からその内容を高く評価され、各地の紀念館や大学でパネル展が展開されることになる。写真は八路軍紀念館での開幕式のテープカット。被害女性を代表して万愛花さん(左端)や劉面換さん(左から3人目)なども参加し、家族や遺族もお祝いに駆けつけた。

【参考文献&DVD

『黄土の村の性暴力~大娘たちの戦争は終わらない』石田米子・内田知行編/創土社/2004年(中国語版は『発生在黄土村庄里的日軍性暴力』趙金貴訳/社会科学出版社/2008年)

『歴史の事実と向き合って~中国人「慰安婦」被害者とともに』大森典子/新日本出版社/2008年)

wamカタログ6『ある日、日本軍がやってきた~中国・戦場での強かんと慰安所』(wam/2008年)

『大娘たちの記憶~中国山西省・第7次聞き取り調査報告』符祝慧・池田恵理子/ビデオ塾/21分/1999年

『大娘たちの戦争は終わらない~中国山西省・黄土の村の性暴力』池田恵理子/ビデオ塾/58分/2004年(中国語版あり)

『大娘たちの闘いは続く~日本軍性暴力パネル展のあゆみ』池田恵理子/ビデオ塾/29分/2013年

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