【被害者証言】宋神道(韓国/在日)


宋神道(イラスト)_s

  • 1922年 朝鮮の忠清南道儒城(現在の大田市)で生まれる
  • 連行年(年齢):1938年(満16歳)
  • 連行先:中国武昌、岳州、咸寧等

● 証言概要

何も分からなかった

数え年12歳のときに父が亡くなり、16歳になると、母が結婚相手を決めてきて、嫁入りすることになりました。嫁入りの意味が分からないので母に尋ねましたが、ただ相手の言う通りにしていればいいということでした。今の子どもなら意味が分かるかもしれませんが、私は何も分からない、遊びたい盛りの子どもで、婚礼の最中にも、お手玉をしている子どもたちと一緒に遊んで怒られたほどでした。

夜になると、新郎と2人きりの部屋に入れられて、12歳も年上のその男がチョゴリを脱がせるので、びっくりして逃げ出しました。ソッチマ(下着)姿で家まで逃げ帰りましたが、母にひどい剣幕で怒られて、実家にもいられず、大田で子守をしたり、洗濯をしたりして過ごしていたところ、42、3歳くらいの行商のおばさんに声をかけられました。事情を話すと、「戦地に行って働けば、結婚しなくても生きていける」と言われました。戦地と言われても分かりません。ただ、嫁に行かなくてもいいなら、とついて行ったんです。

知らない間に借金を背負わされ

北朝鮮の平壌(ピョンヤン)を通って新義州(シニジュ)に行ったら「紹介所」という看板がかかっていました。同じ年頃の女やら、もっと年取った女やらいっぱいいて、そこから男の人に連れられて、汽車に乗って天津へ。それから大きな汽船に乗って漢口へ行き、漢口からまた船に乗って武昌に着きました。

二階建ての大きな建物に、大工出身の兵隊が部屋を作って、そこに15人の女が1人ずつ入れられました。寝台が1つあって、わら布団が敷いてあるだけ。兵隊さんが入ったら靴脱いで、服脱いで置くくらいで、ほかの荷物は入らない小さな部屋です。「世界館」という名前でした。

間もなく検査すると言われ、台の上に乗せられたら、もう怖いし、情けないし、わんわん泣いてばかりいました。そしたら軍医が、もういいやって、お尻をはたいてそのまま降ろしてくれたんです。

その検査が終わった晩に、その軍医が部屋に来ました。怖くて、泣きながら逃げ回ったら、そのまま出て行きました。ところが帳場が怒って、髪をひっぱって殴ったり、蹴っとばしたり、鼻血が出るくらい殴って、お前は借金背負ってるんだから、借金払っていけと言うんです。びっくりして、その借金は何かときくと、武昌までの汽車賃や食費、ワンピース代などが借金になっていると言われました。

その日から、入れ替わり立ち替わり軍人が来るようになりました。怖ろしかった。刀をぶらさげて来るし、とにかく言葉が通じないんですから。

何回も逃げようとしたけど、結局捕まって殴られ、ご飯も食べさせないで、暗い部屋に閉じ込められて、明日から軍人の言うこときくんだぞ、と言われます。帳場にも、軍人にも殴られどうしで、耳が遠くなって、片方は全く聴こえなくなりました。「金子」という名前をつけられて、忘れないようにと腕に入れ墨までされました。抵抗して軍人に切られた傷も背中に残っています。

死産、出産

「世界館」では、朝の7時から夕方の5時までが兵隊の時間。5時から8時までが下士官と士官。それから8時から12時までが将校の時間でした。

数えで19歳のときに初潮を迎えました。血が出るのを見てびっくりして死ぬかと思って泣いてたら笑われました。そんなことも知らなかったんです。

生理のときも休めない。そして妊娠しました。お腹が大きくなっても、軍人の相手をしなければ殴られる。結局、7カ月でお腹の子どもは死にました。それを自分で引っ張り出して、自分で始末したんです。

それからまた妊娠して、今度は武昌から漢口の海軍慰安所に移って産みました。ちっこいのが出てきて寝てるのを見たら、お腹がくすぐったくて、笑いが止まりませんでした。でも、慰安所では育てられません。中国人に預けました。とにかく生んだら人さやらなければならない立場だったんです。

岳州へ。部隊づきの「慰安婦」に

武昌に3年か4年くらいいて、漢口で子ども生んでから間もなく岳州に移りました。岳州にいたのは峯部隊でした。

普段は軍人がそんなに多くないのですが、通過部隊があるときには休む暇もない。1日に何十人も相手にしなければなりませんでした。そうして通過して行った部隊から命令があると、軍人がトラックで迎えに来ました。長安、応山、蒲圻、さまざまなところに行ってまた岳州に戻るんです。相手にしたのは三師団、六師団、四〇師団など。

弾が飛んで来る中で兵隊の相手をさせられるのが一番つらかった。兵隊さんはこのまま死ねば本望だなんて言うけど、弾に当たって死んだらどうしようかと思って。兵隊さんたちが一緒に死んでくれって言うときもつらかった。私は絶対死にたくなかったから。

言葉が通じないのもつらかった。朝鮮語使ったら殴られるし、言うこと聞かなきゃ殴る、蹴る。殴られないように、死なないように、自分の身体守るためには、日本語をちゃんと覚えて、女は自分で自分の身体を守らなきゃならないんです。

朝鮮の女たち、ずいぶん死にました。クレゾール飲んで自殺した女もいたし。兵隊さんが投げた石が腹に当たって腹膜炎になって死んだ女、兵隊さんと心中した女もいました。一緒に死んだからって、一緒に焼いてくれるわけでもない。兵隊さんは死ねば骨になって自分の国に帰れるけど、朝鮮の女はそこで穴掘って埋めて終わりです。

敗戦後、日本人元軍曹に誘われて日本へ

咸寧の慰安所にいるときに、顔なじみの軍人が来て、戦争終わって現地満期してきたから、結婚して一緒に日本に行こうと言われました。戦争が終わると軍人たちは姿を消して、どうすればいいのか分からない、他に方法がないから、その軍人について日本に来ましたが、博多に着いたら「進駐軍のパンスケにでもなれ」って言って捨てられました。

必死に後をついて行ったけど、結局また上野の駅まで連れて行かれて捨てられて、ふらりと乗った汽車から飛び降りました。戦地では死にたくなくて必死に自分の身体を守って来たのに、また騙されて見も知らない日本にまで来て軍人に捨てられて、もうどうやって生きていけばいいのか分からなくなってしまったんです。でも、なかなか死ねるものではありません。救われて、事情を話したら、宮城県で飯場をやっている在日朝鮮人を紹介されました。飯場なら飯炊きとか、何か仕事があるだろうって。

17歳も年上のおっかない顔をした男でしたが、私の身の上に同情してくれて、外から見たら夫婦のように暮らしました。でも、肉体関係をしたことは一度もありません。「慰安婦」をしてきた人間だから、肉体関係倒産したみたいになってて、男なんか全然いやなんです。父親みたいにありがたい人間と、どうしてそんなことできますか。

二度と戦争はしないこと

この男が病気になって、私は魚の加工屋とか道路工事とか水商売とか、必死に働いて面倒みたけど、とうとう生活に困って、50歳のときから生活保護をもらうようになりました。そしたら「ホゴ食らってる」って白い目で見られるようになりました。軍人は恩給だ、遺族は年金だって威張ってる。戦争の時はお国のためって、日本人として引っ張って行って、戦争終わったら朝鮮人だの、慰安婦だのと、差別つけて、意味が取れない。だから裁判かけたんです。10年裁判やったけど、結局負け。でも、裁判に負けても、心は負けてない。二度と戦争をしないこと、これだけ言いたい。日本の子どもと朝鮮の子どもが仲良くやっていけるように、政治家が頭つかってやってほしいと思います。

(参考文献)

*在日の慰安婦裁判を支える会編『オレの心は負けてない』2007年 樹花舎

*証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 南北コリア編<上> 2006年 明石書店

*梁澄子「在日韓国人元『従軍慰安婦』宋神道さんの七〇年」金富子・梁澄子ほか著『もっと知りたい「慰安婦」問題』明石書店、1995年

行政が設けた職業紹介所とは別に、「人事紹介所」という名で、実際には女性の人身売買などを行った。日本の公娼制度が朝鮮に持ちこまれた結果生まれたもので、慰安婦の徴集にも一役かった形跡が、この証言からわかる。

性病検査のこと。週1回、10日に1回、隔週1回などの割合で「慰安婦」に対する性病検査が、部隊付きの軍医や衛生兵などによって行われた。これは「慰安婦」の健康のためではなく、将兵が性病になり戦力が低下することを防ぐためであった。

峯部隊とは通称で、正式名称は独立混成第一七旅団という。1939年12月上海で編成されて、1942年8月に司令部を岳州に、1943年7月に咸寧に移駐した(川田文子『皇軍慰安所の女たち』より)。

進駐軍とは、敗戦後の日本を占領した連合国軍(事実上アメリカ軍)のことで、占領軍と呼ばれた。「パンスケ」とはアメリカ軍人相手に性売買をした日本人女性(「パンパンガール」とも呼ばれた)への蔑称である。

一九九三年四月日本政府に謝罪を求めて東京地裁に提訴(その後補償も請求)。日本在住の被害者としてははじめてにして唯一である。

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