- 1928年12月8日生まれ
- 連行年(年齢):1942年(13歳)
- 連行先:ゴビエルノ通りに面した2階建ての家(近くに日本軍駐屯所があり「ビックハウス」と呼ばれていた)
- 証言概要
日本兵が自宅に押し入り父を殺害、暴力的に連行されました
母は私を生んで1カ月後に亡くなりました。兄弟はいません。私は大工をしていた父とサン・ホセで、貧しいながらも平穏に暮らしていました。
1942年に日本軍がパナイ島のイロイロ州に上陸すると、私の住んでいたアンティケ州サン・ホセにも日本軍がやって来ました。学校は休校になり、私たちは山に避難しました。2週間ほどして州知事が日本軍は危害を加えないので居住地に戻るように呼び掛けました。避難先の山では食べ物がなく苦しい生活だったので、父と私は自宅に戻りました。
ある夜、自宅で寝ていたところ、2人の日本兵が押し入ってきて、私を連れ出そうとしました。父は抵抗したため、軍刀で首を切り落とされてしまいました。余りの悲しさに泣き叫ぶ私を、日本兵は容赦なく家から引きずり出しました。
ビックハウスに閉じ込められ、毎日強かんされました
私はゴビエルノ通りに面した2階建ての大きな建物(ビックハウス)に連行され、鍵がかかった1室に閉じ込められました。夜明け前、私は部屋にやってきたヒロオカ・ゲンノスケ大尉らに強かんされました。抵抗すると頭を殴られ気絶しました。3日後に日本兵がまたやってきて、それからは毎日2人から5人位の兵隊に強かんされました。どのくらいその家にいたかは覚えていません。正気を失ってしまったと思うこともありました。私はまだ13歳で、父が殺されたときのことを思い出しては、何時間もぼんやりと宙を見つめていました。
ある日、日本兵がテーブルの上に置き忘れた鍵を使って逃げ出し、ある老夫婦にかくまってもらいました。しかし3日目に井戸で水を汲んでいたところをオクムラ大佐[1]に見つかり、石原産業倉庫脇の大佐の家へ連れて行かれました。逃げると殺すと脅されて、奴隷のように扱われました。洗濯や掃除を命じられたほかに、オクムラ大佐とその友人たちに強かんされる日々が1年以上も続きました。
解放後も強かんの記憶に付きまとわれ、結婚ができませんでした
日本兵がサン・ホセから完全にいなくなって、私はようやく解放されました。自宅に帰りましたが家は倒れかかっていて住むことができず、当時16歳だった私は途方にくれてしまいました。たった一人の身寄りだった父を殺され、学校へ行くこともできませんでした。
戦後は母の形見のミシンで仕立物をしながら養子を育てました。年を取って目が悪くなってからは、小さなサリサリストア(雑貨屋)を営んでいます。若い頃には結婚を申し込まれたこともありましたが、すべて断りました。セックスには暴力と強かんの記憶がつきまとっていて汚らしく、寒気がしたからです。交際を断った男性の1人からは、「日本人を何百人も相手にする方がいいのだろう」と侮辱され、家に投石までされました。
名乗り出、そして裁判の原告に
1992年の終わりに、ある女性団体が第二次世界大戦中に性奴隷制度の被害者になった私のような女性に名乗り出るよう呼びかけていることを知りました。お金がなかったので毛布を売って交通費を作ってイロイロ市に行き、名のり出ました。
タスクフォースの人々に自分の体験を話した時には大きな安堵感に包まれました。長い間ずっと、誰かわかってくれる人に戦争中の苦しい体験を全部打ち明けたかったのです。その後、日本政府を訴える裁判の原告になりましたが、東京地裁では全面棄却という判決だったため、「恥ずかしくて村に帰れない。このまま死んでしまいたい」と泣きました。2000年の女性国際戦犯法廷では被告に有罪が言い渡され、初めて正義が達成されたと感じました。今までに味わったことのない気持ちでした。
私は貧しく年老いた女性です。お金では父の死や私の未来の夢や青春が奪われたことの償いにはなりません。ですから「女性のためのアジア平和国民基金」は受け取らないことにしました。最近、女性国際戦犯法廷の様子をテレビで観た人たちから、声をかけられるようになりました。そんな時「私が言ってきたことは間違いではなかった」「正しいことのために自分は立ち上がったのだ」と誇らしく思います。(2007年4月永眠)
[1] 熊井敏美氏(元日本軍兵士、パナイ島守備隊所属副官)の証言により、「オクムラ大佐」ではなく、「外村(トノムラ)中尉」(石原産業の主任だったが、現地で召集された)だったことが判明した。
【参考文献】
・フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団編『フィリピンの日本軍「慰安婦」性的暴力の被害者たち』明石書店、1995年
・‘wam カタログ9 『フィリピン・立ち上がるロラたち~日本軍に踏みにじられた島々から』 wam 、2011年)
・アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編 『学び・調べ・考えよう フィールドワーク日本軍「慰安婦」』 平和文化、2008年
・熊井敏美『フィリピンの血と泥 太平洋戦争最悪のゲリラ戦』時事通信社、1977年